ジェネシス・ラビット〜Palaeolaginae meets love〜 作:ryuryuさま プロローグ 悲しみの旅路 波に削られ浸食された岩礁が点在する岩の海岸。 その光景を横目で見ながら、俺はお腹を空かせたまま只一人リュックを背負い海岸沿いに伸びる小径を歩いていた。 白砂が積もる道の両脇には、トベラが濃い緑色の葉を茂らせ、その下には淡緑色のグミが下に見え隠れしていた。 所々で甘い実を付けるカジイチゴも自生していて空腹にかられて覗き込んみたけれど、 残念ながら一粒も実を付けていなかった。 ため息を付きながら俺は海岸沿いの道を歩き続ける。白砂で半ば埋もれた道は、 暫くの間平坦のまま続いていたものの、前方に見えていた小さな岬に差し掛かったところで緩い上り坂になった。 足を踏み出し坂道を登り切ったところで、視界が一気に開けた。岬のてっぺんに到着したのだ。 「街だ……」 見晴らしの良い岬の遙か前方には、海岸に迫るように都市群が広がっているのが見て取れた。 ずっと歩き続けていた海岸林地帯はこれでようやくおしまいだ。 そう思ったその時、おそらく疲れが出たのだろう、俺のお腹を締め付けるような空腹感が一層強くなった。 そういえば朝から何も食べていなかったっけ。 「……何か……食べなくちゃ……」 俺はそうつぶやくと、木陰に腰を下ろしリュックの中に入っていた食料袋を取り出した。 食料といってもメニューは岩のようにカチカチになった干し芋と、しょっぱいだけの野菜の塩漬けがほんのちょっぴり。 まるで塩混じりの粘土を食べているみたいで、ほんの少し食べたところですぐに俺のお腹が受け付けなくなった。 「あそこなら、美味しい食べ物をお腹一杯食べられるかな……」 未だに空腹のお腹を抱えたまま、俺は前方に拡がる都市群を見つめるとため息をついた。 景色の良さとは裏腹に、自分の心には重い雲が晴れることはなかった。 少数民族のパレオ=ラビット(ムカシウサギ)族。それが亡くなった両親から教わった俺の種族名だ。 数が少なく殆どの仲間は数戸程度の村で暮らすか、集落からも離れて点在する村を渡り歩く生活をおこなっている。 俺も村で生まれ育った一人だったが、老獣達しか居なくなっていた村は消滅。 ひとりぼっちになった俺は仲間を求めて他の村を探し渡り歩いた。 本当に辛かったのはそれからだった。直ぐに仲間が見つかると思っていた旅先で目の当たりにしたのは、 崩れた建物にススキで覆われた放棄畑だけ。村はどこもが廃村となり仲間は殆ど消え去っていた。 辺境の人口崩壊によって村が次々と消滅していたことを後で知ったが、その時はそのことを知るはずもなかった。 最後に立ち寄った村の跡は半月程前だっただろうか。 そこで探険に訪れていた都市圏からやってきたイヌの若者から海岸から首都まで連なる都市郡の話を聞き、 俺は村捜しはやめて一人街へと足を向けた。 彼の話では街ではムカシウサギは見ていないと話していたけれど、少なくとも話す相手位は見つかるだろう。 リュックを背負うと、俺は再び前方に見える街へと歩き始めた。 道は下り坂になり、足がだんだんと速くなってくる。視界も開け、前方に街がハッキリと見えるので 気分的にも大分楽になってきた。ただ、太陽が高く昇り、暑さが更に厳しくなってきた。 今は6月、亜熱帯気候のこの地方ではもう夏の真っ盛りだ。 時折タブノキから突き出された枝が日陰を作ってくれていたが、それ以外には夏の強い日差しを遮るようなもの全くなかった。 太陽と地面から放射された熱が、尖った長い耳の先に伝わってくる。 「歩道は……ここまでか……」 炎天下を早足で下ること約1時間、海岸沿いにずっと続いていた白い道はようやく終わり、 広い自動車道へと合流した。左右にはこれまで見られなかった民家や建物も姿を見せるようになり、 時折これまで見たことがない車も通りすぎている。ここまで来たら街までもう一息だ……。 ホッとしたその時、一瞬地面がぐらっと揺れたような妙な違和感に見舞われた。 ハッとして手を地面につけて身体を支えたが、それっきり特に何も起きなかった。 身体を軽く動かしてみたけれど別に何処も痛くない。軽いめまいがしただけだろう。 「よかった……、どうやら大丈……ぶ……?」 そう呟いて立ち上がり描けたその時、俺は身体が言うことを聞かないことに気がついた。 思うように力が入らないので立ち上がることが出来ないし、手を付いて座っている今ですらふらついて地面が揺れてきた。 この症状は……まさか……。 (まずい、熱射病だ……!) 迂闊だった……。 最初は殆ど気がつかないが、このめまいと虚脱感、以前熱射病で倒れたときの同じ症状だ。 街へと急ぐあまり暑い中を疲れ切った身体を押して歩き続けたのがいけなかった。頭もボーっとしてきている……。 「しまった……」 悔やんだところで俺にはどうすることできない。 必死で街へと伸びる自動車道の脇を這うようにして歩いたが、しばらく歩いたところで足がもつれ、 俺は道ばたの歩道へと倒れ込んだ。 (……ひとりぼっちでなかったら……こんなことにならなかったのに……) 太陽に照りつけるままの道ばたで動けなくなった俺は、倒れたままこれまでの旅を思い出していた。 誰もいなくなった廃墟の村で一人お腹を空かせていたこと。空腹のあまり毒草に手を出して お腹を壊しても診てくれる人が誰も居らず、一人苦しんだまま三日三晩過ごしたこと。 熱射病で半ばうなされたせいだろう。 浮かんでくるのはこれまでの孤独で居ることの辛さや悔しさ、そして悲しい事ばかりだった。 やがて意識も途切れ始めたが、俺はそれに抗わずに身を任せた。 たとえ意識がなくなっても、悲しいことばかりのその思い出を、彼方へと追いやりたかったからだ……。 仲間も連れ合いも……欲しかったな……。 1 白狼の歌姫 「フィア……このウサギどうやら気がついたみたいだねぇ、ちょっと応対して貰えるかな?」 「本当……?あ、これでもう‥大丈夫かしら?」 ……遠くから呼ばれ、身体を揺すられたような気がしたところで俺は目が覚めた。 まだ重いまぶたをこじ開けると、焦点が定まらない視界に誰かが覗き込んでいるシルエットがぼんやりと見える。 「んんっ…あれ…ここは何処…?」 まだうまく回らない口で俺は目の前のシルエットに話しかけた。 ぼやけた焦点が徐々にハッキリとしてきて尖った耳と白い毛並みが見えてきた。 体つきと先程の声から考えるとどうやらイヌ族の女の子みたいだ。 「あ…まだ無理してしゃべらなくてもいいわ。あ、わたしは…フィアといいます」 「フィア…さん…!?」 その時、丁度目にはっきりとフィアの姿が映し出され、俺は驚きで目を大きく見開いた。 上から覗き込んでいた少女はイヌ族ではなく、美しい毛並みで有名なシロオオカミ族のようだった。 白い身体の上に絹で出来た肩に結び目のある水色のドレスを身にまとい、 白く光る綿のような毛に包まれ藍色の瞳が輝いている。フィアに見とれてジッと見つめている自分に気が付き、 慌てて辺りを見回す。 「…ここは…どこなのかな…?」 今居る部屋に俺は見覚えがなかった。部屋はおよそ10メートル四方で廃村にあった集会場跡位の大きさはあった。 置かれたテーブルや何かに使うための機械類も整理されて綺麗にまとめられている。 炎天下の屋外とは違ってひんやりとした空気に包まれていたから多分クーラーが備え付けてあるのだろう。 隅には俺が寝かされていたソファが設置され反対側には大きな鏡と椅子が添え付けられているのが見えた。 皮が丈夫に張られたこのソファといい傷一つ付いていない大きな鏡といい、それなりの施設ではあるようだけれど…。 「ここは『シーランド』…私が働いている酒場の控え室よ。 あなたがこのすぐ近くで倒れていたのをここの店の人が見つけて運んでくれたの。 街の病院に行くよりここで介抱した方が良かったみたいだし」 答えてくれたフィアの口調は淡々としていた。表情も無表情だったけれど別に嫌がっているみたいではないみたいだ。 もともとあまり表情を見せず物静かな性格なのかもしれない。 「介抱…? あ、そういえば暑さにやられて道路で動けなくなったんだっけ…」 「やっぱり熱射病で倒れていたのね…。見つけたときは驚いたわよ…。今はもう大丈夫?」 「うん…」 俺は頷いた。実際、倒れたときのめまいや虚脱感は、既に綺麗さっぱりと無くなっていた。 まだ手足に痺れが残り、頭がほんの少し痛む気がするけれど、倒れたときに比べたらどうってことない。 「そうだったんだ…。何だか俺の為に迷惑をかけてしまったみたいで申し訳ないです。 あ、俺の名前ですが…ムルト…と言います。これ以上ココにいて迷惑をおかけするわけにもいかないや、行かな…」 「あ、動けるからってまだ無理したらだめよ…。」 よろよろと立ち上がりかける俺を腕と肩を軽くおさえて座らせると、フィアは尻尾を揺らして部屋の外へと歩いていった。 程なくして、ピンク色をしたジュースが注がれた氷入りのグラスを持って戻ってくると、俺に差し出した。 「はい、グアバジュースだけど、飲めるかしら?」 まだ僅かに震える手で受け取ると、口元へと持っていった。 甘酸っぱいひんやりとした感覚が心地よくて氷ごと一気に喉へと流し込む。 「…美味い…」 ジュースを一滴も残さず飲み干すと、俺はほうっと息をついた。 火照った身体が冷やされ、残っていた頭痛も押し流されたきがする。 「良かった…熱射病のほうはもう大丈夫みたいね」 溶けかかっている氷のかけらを口に含む俺の姿を見て、フィアが話しかけてきた。 「もう炎天下を歩くような無理はしないでね。それと、今気になったけれどもしかしてお腹は空いていない?」 「どうしてソレが分か…あっ!? い、いや大丈夫ですっ」 俺はあわてて首を横に振った。食べ物をろくに食べていないから凄くお腹を空かせているけれど、 これ以上迷惑を掛けたくない。 「無理しなくても良いわ。隠してるつもりでも痩せた身体と表情で凄くお腹を空かせているって分かって居るんだから」 彼女そう言うと、再び扉から部屋を出て行った。程なくして正装をした黒猫の男性と一緒にフィアは戻ってきた。 金縁のネームプレートが付けられており、どうやらここのマスターらしい。 二人の手には湯気が立つお皿をいくつか抱え、テーブルへと並べてきた。 二人が持ってきた料理の数々みて俺は目を丸くした。出てきたものは芋の葉にくるまれた蒸し鳥、香草が詰まった南国芋のホイル焼き、バナナの葉に盛られたカルパッチョに芋と天然麦の蒸しパン。 脇にはココナッツのクレープやゼリーまで添えられている。こんな豪華な食事を見るのは生まれてから一度も見たことがない。 口の中に溜まった唾を、思わずごくりと飲み込む。 「はい…これだけあれば、きっと元気になるわよ」 「え、でも俺はお金…持ってない」 殆ど貨幣を使うことがなかったから物々交換用の換金物以外はお金らしいお金は持っていなかった。 こっそり財布を覗き込むが、中身は当然空っぽだ。 「あはは、大丈夫ですよ。今日のあまり物をちょっと暖めただけですからお金なんていりません。 ほっといても捨ててしまうだけですし」 余り物にしてはどれもこれも豪華すぎるような…。 そんな俺の心配をよそに、マスターはニコニコと笑顔を崩さなかった。 さすがにこの店の主とあるだけあって話す言葉といい物腰といい紳士の見本とも言っていいくらいだ。 無表情で淡々とした口調のフィアとは対照的だ。 「熱射病になったのだって単に炎天下を歩き通しただけじゃないわ。 多分お腹空かせて…、痩せて体力が無くなってしまっていたせいよ。遠慮は要らないわ、食べて…」 彼女の言葉にもう遠慮はいらなかった。 俺は深くお辞儀をすると、ホイル焼きの芋を手に取ると包みを破り、口へと放り込んだ。 (美味い…!) 「ちょっと、そんなに慌てず食べなくても料理は逃げないから大丈夫よ」 「分かってるけれど美味しくて嬉しくって…俺こんな美味しいモノ食べたことはないんだもの。 マスターありがとうございます。‥美味い!」 「もう…。そんなにがっついちゃうと喉を火傷しちゃうわよ」 もう泣き笑いの混ざったの表情で皿の中身は次々と綺麗にする俺を彼女は少し困ったような表情で見つめていたが、 止めずにすぐ脇で俺が食べるところを見守ってくれていた。 ふと、目を上げた時、彼女のヒラヒラとしたワンピースがハッキリと見えた。 露出した胸のフワ毛は遠くで見たときよりもフワモコした毛に包まれており、 よくよくみるとすぐ下に胸の谷間がハッキリと見えた。おまけに、俺の隣で立っているので露出した太ももがハッキリと見える。 太ももどころかそろ内側までチラチラと見え隠れしていたけれど、なんだか中の下着は付いているようでいないようで…。 いけないっ、慌ててスカートの内側に集中していた視線を食卓のお皿へと移すと再び蒸しパンを口へと描き込む。 「それにしても、あなたってどこからやってきたの? その姿からして随分と遠くから流れ着いた感じだけれど…」 しばらくして運ばれた料理をあらかた食べつくし、 プリンのソースを惜しむようにしてスプーンですくい取る俺をみて、フィアが話しかけてきた。 「西の果てにある辺境からやってきたんだ。街に向かう途中だったんだけれどその途中で炎天下にやられちゃった」 「それであんなところで倒れていたのね。あの辺りは普通歩く人はまずいないから不思議に思っていたわ。 自動車で通りかかって良かった。これからはもう無茶しちゃダメよ。旅から送り出した家族や仲間が泣くわよ、きっと」 「俺には居ないんだ…家族も仲間も。村は消えて…みんな居なくなった」 「なんですって、みんな…居なくなった…!?」 テーブルの脇で耳を傾けていたマスターが驚いた顔で聞き返した。 俺は頷いた。廃村を渡り歩いて孤独が身に染みていたのを思い出して、少し胸が痛む。 「ええ…もう俺が生まれたときには村はもう消滅しかかっていました。 既に住人は殆ど居なかったですから…。でも、その後まさかずっと一人で彷徨うことになるなんて…」 「そんなことが‥。やっぱり…辛いわよねそんな旅」 「うん…正直辛いだけの旅だったよ。 話し相手もそれに何かあっても心配してくれる獣も泣いてくれる獣も居なかったからね…。 孤独で言葉すら忘れかけたことだってあった…」 「そう…」 俺の言葉にフィアは黙りこくってしまった。 目を伏せて僅かに悲しそうな顔で俺を見つめていたが、急に明るい表情を見せると、フィアは立ち上がった。 「元気出して、ほら、一つ何か歌って上げるから。丁度ステージの時間だし…、元気が出るような歌がいいわね?」 「え、ステージって…歌うのですか?」 「勿論よ。言ったでしょう、ここは控え室だって、もう歩けるなら付いてきて…?」 そう言うとフィアは扉を開けて再び部屋を出て行った。 先程の食事で俺も体力は回復していた。立ち上がってフィアの後に続いて扉を開けて外にでる。 「うわぁ…!!」 扉が開いた所で俺は驚いた。目の前には広い空間が拡がっており、 入り口らしいエントランスがかなり遠くに見える位だ。かなり掃除と整備が施されているのか、 壁もテーブルも綺麗に磨かれ、床にはゴミひとつ落ちていなかった。 フロアに広がる客席は、一席だけで小さな部屋一つあるくらいに広々としているのが見て取れる。 左手の壁沿いに瓶とグラスが並べられたカウンター、そして向かいの壁にはステージが設置されていて、 丁度フィアがスポットライトに照らされ白い毛並みを輝かせていた。 裏にはバックバンドらしき数人が電子楽器を持って控えていた。 「酒場…って言っていたけれど随分とイメージと違うなあ。もっとごちゃごちゃしたところを想像してたのだけれど」 「ええ、酒場と言ってもちょっとお金もちの方達が楽しめるように作られたお店ですから。 あ、その手前の空いている席へとどうぞ、そちらからだと良く見えますよ」 不思議そうにしている俺の表情を察したのか、マスターが説明してくれた。 確かに酒場といっても設備からして安い大衆酒場とは全然違っていた。 設備もさることながら、客も普段着姿の客は居らず、高級そうなスーツやドレス姿が目立っている。 ボロボロのTシャツを着た俺の方が場違いのように思える位だ。 マスターに促されてテーブルに座ると、ステージに立つフィアがカウンターに向かって片手を上げた。 その時、急に辺りの証明が暗くなり、彼女が白いスポットライトが照らされて彼女の白い毛並みがキラキラと輝いて見えた。 あちこちから話し声が聞こえていた店内が急に静まり、みんなフィアの方へと目を向ける。 「見てみなさい‥、彼女の歌聞いたら心のもやもやなんか消えてしまいますよ」 マスターがそう言うと同時にバックバンドからの曲が流れ、 程なくして歌い始めたフィアの声が店の中で響くように伝わってきた。 悲しみの傷 踏みしめる旅人よ 風の翼はためかせ 見つけるわ 傷を包み込む 水をあげましょう 悲しみ溶かし 潤いへと変えて行くわ〜♪ 「上手い…」 フィアの歌を聴きながら俺は静かに呟いた。 声には張りがあって、心を動かれるような不思議な魅力があった。相当の才能だ。 歌もさることながら、その踊りも一流のダンサー顔負けだった。 フワフワの白い尻尾をひるがえして踊る姿には無駄はなく、曲との統率に乱れが全くなかった。 プロですらここまではいかない。 そして、その表情は先程までは決して見せなかった笑顔で満ちあふれていた。 俺は彼女の魅力にあっという間に引き込まれた。 「どうですか…うちの自慢の歌姫の歌は…?」 踊る彼女から視線を外さない俺に、マスターが話しかけてきた。 「凄いじゃないですか。歌は廃村になる前の村でノイズ混じりのラジオで聞いていたけれど… ここまで上手い獣は見たことない…」 「ええ、あの歌には私も驚かされますよ。彼女が来てから歌を聴きに来る金持ち連中も増えたし。 正直凄い助かってますし。あ、ファンは多いけれど大事なうちの姫ですから、 手をだそうとする客は遠慮無く尻尾掴んでつまみ出しますよ」 マスターはそう言うと笑い出した。 4つ曲を歌い終えたところで各席から拍手が湧いたところで、照明がついて店は再び元の穏やかな雰囲気を取り戻した。 ステージを降りたフィアは、あちこちで握手を求められながら、俺の席へと戻ってきた。 程なくして運ばれたレモネードを一口飲むと、軽くはずんだ声で俺に話しかける。 口調は相変わらず淡々としていたが、表情は幾分笑顔を見せているのが俺にもわかった。 「どうだった、少しは元気が出てきたら嬉しいけれど?」 「凄いよ。本当に元気が出てきたもの」 お世辞ではなかった。重い気持ちが澄んだ歌声で洗い流されていくみたいだ。 「良かった。あ、良かったらここで一緒に飲むの付き合ってあげても良いわよ。 お酒は良くないからわたしも飲むのはジュースだけれど」 「い、いいよ‥。それより俺のことは気にしなくてもいいのにっ」 俺は慌てて首を振った。俺のために歌っただけでも十分過ぎるくらいだ。 こんな美獣の白狼と一緒に居るのは嬉しいけれど、酒をちびちびグラスに注いでいる黒スーツ姿の 狐のおっさんの視線が痛い。背後で羨ましそうな、‥というより恨めしそうな顔をしてるぞ、このおっさん。 「遠慮しなくても大丈夫なのに。そういえば、これからどうするの?」 その言葉に俺は答えに詰まった。 「この街でひっそりと暮らして、…とは思ったけれど他のことは考えてなかったな。 ここに向かうまでは街にたどり着くことだけ考えていたし、到着する前に倒れてしまってここに運びこまれたから」 そんな俺を見て、フィアが少し困ったような顔で考え込む。 「ひっそりと暮らす‥のも悪くはないとは思うけれど‥難しいわね‥。 確かにここには食べ物も楽しむ物も沢山集まってきているけれど、お金がないとこの町だと何も出来ないわよ」 「お金かぁ‥。この街のコトを話してくれた犬族もそんなこと言ってたっけ。 俺が出来ることと言ったらプラントハンターくらいだけれど、ここでも出来るかな‥」 「プラントハンター?」 不思議そうにフィアが聞き返す。この言葉を知らないところを見ると、 どうやらこの街にプラントハンターで生計を立てる獣は居ないらしい。 「要は森林で貴重な植物を採取する獣のことさ。 自然資源の豊富な森で高値で取引されそうな種や標本を持ち帰ってそれを換金して生計を建てるんだ。 廃村に居たときはこれが数少ない現金収入になっていたもの。」 森さえ入れば、それなりに希少植物を見つけ出す自信はあった。 診療所も商店も消えた廃村で暮らしていたので、一人で生きるために俺は必死で植物を覚えていたのを思い出す。 「そんな職業があったのね。でも、素敵じゃない。めぼしい材料が見つかったらうちでも買い取るわ。 丁度うちの店でも自家製の飲料や料理を作りたいと言っていたでしょう、ねっ、マスター?」 そう言って彼女に、マスターが笑いながら頷く。 「どうやらこれで決まりね‥。良かったわね。ようし、ムルト君が住む所も手配しなくちゃ。ちょっと打診してみるわ」 幾分嬉しそうな口調でそう言うと、フィアは出し抜けに心の準備もなしに手を重ねられて、 俺はドキリとした。長い耳が棒のようにピンと立ったままカチコチになって動かない。 そんな俺の姿をみて、フィアは手を離してクスリと笑うと、立ち上がった。 彼女の後ろで真っ白なふわふわの尻尾が俺の目の前で見え隠れする。 「それじゃあ私はそのアパートの管理人さんの所に行くわね。また後でね♪」 「あ、あ、ありがとう…。でも何故…そんなに優しくしてくれるのかい…?」 テーブルを離れようとするフィアに、あわてて俺は尋ねてみた。 フィアの勢いに流されっぱなしで出る心なしか声がどもる。 「興味があるしなんだかほうっておけなかったから‥。頑張ってね、ムルト君」 耳元でそう囁くと、フィアはテーブルを離れた。 後には真っ赤になったままのウサギが一人テーブルに残されていた。 どうして顔が赤くなったのか、そんなのはもう自分でもよく分かっていた。 誰かを好きになるこんな感情、これまで一度もなかったな‥。 2 フィアへの恋心 暫く街に留まった俺は、フィアの紹介で街の西の郊外にある安いアパートを借り、 一時的にここに腰を落ち着けることになった。 俺がたどり着いたシティの南には外洋まで続く海、東には大都市群が海岸沿いに続いていたが、 西の方には俺が旅してきた広大な海岸林帯が広がっていた。 この西の森林地帯を中心に、俺は役立つ植物を探し回った。 無論最初は苦労が多かった。原始的な方法で植物の採取を行うだけなので、なかなかお金にならないことは 俺も知っていたが、それが分かっていても高価に買い取ってくれる代物が見つかる訳ではない。 食材になりそうな野生の植物は比較的簡単に見つけられたモノの、 どれも量がかさばる割に、市場で売っても安価で割にあうものではなかった。 「高価なものは難しいねぇ。大体この街には食材も薬も、あちこちの地方からいくらでも集まるからねえ? 何が珍しくて珍重されるかは、ワシらも知りたいくらいじゃよ」 買い取りをしてくれる、年老いたクマの卸売り業者の言葉が耳に残る。 マスターやフィアはシーランドでのアルバイトを勧めてくれたけれど、接客の仕事をするには、 仲間との関わりを持たずに暮らしすぎた。もう少しこの街で暮らす事に慣れなければ厳しいだろう。 勿論俺だって何も考えなかった訳じゃない フルに頭を働かせて考えた末、調味料、香辛料の材料となる植物の実を集中的に探しまくった。 これなら鞄がかさばらないし、少量でも十分取引されるモノが多い。 これは意外とうまくいった。地産品や自家製の調味料・香辛料の貴重な材料に出来るので、 予想より買い手があって需要が多かった為だ。おかげで、朝から日没までがむしゃらに森林を駆け回った結果、 どうにかいくばくかのお金を手に入れるようになった。 稼いだお金は出費を切りつめ、俺は街の銀行へと貯め込んだ。 貯めたお金は、ここで生活するための資金にするか、いつか街を出るときの旅費にするか、 いずれにせよ今はお金を貯めて今後の行く末を考えていくつもりだ。 仕事が終わった時や休みの時は、俺はシーランドの店に通い詰めていた。 勿論フィアの歌声が目当てだ。彼女の澄んだ歌声を聞くと、何故か気持ちホッとさせられるので、 ここへやってきて彼女の歌を聴くだけ幸せだった。 彼女に恋心が芽生えていたけれど、これはずっと胸の奥に仕舞われたままだろう。 店の料金は目玉の飛び出るようなぼったくりではなかったものの、 高級クラブだけあって料理も飲料も普通の店より明らかに高い。 なので俺は一番安いパインジュースを一杯だけ頼み、溶けかけた氷と一緒にちびちびと飲む事が多かった。 それでもマスターは嫌な顔ひとつせずに他の客と同じように冷えたパインジュースを出してくれた。 「それにしても本当に申し訳ないですよ。注文するのはいつもこれだけで」 「気にすることはありませんよ。お金さえあれば何でも出来るとおごるようなお客より、 こちらが出したものを嬉しそうに飲んでくれるウサギの顔を見る方がよっぽど嬉しいですから。 お金にならない? 大丈夫、お金はあるところにありますからね」 すまなそうな顔をしているのが分かったろう、マスターはそう言って笑うと、ステージで歌っているフィアに目を向けた。 「ムルト君はフィアのこと、大分お気に入りのようですね?」 「えっ、どうしてそれを…?」 「カウンターに居ると、お客の考えていることは大体分かりますよ。 それにムルト君、歌っている間ずっとフィアのことを見てばかり居ましたから」 「マスターの観察力には適わないなぁ。あ、でもやましいことはしませんよ絶対。 それにしてもあのフィアの歌声は本当に凄いですよ。 あれほどの歌の天才ならテレビやラジオの放送局からも依頼が来そうですよ」 「彼女も言っていましたよ。放送局で歌うことを夢だって…。 実際に放送局から依頼の話が具体的に進んでいるらしいですからね。 そうなったら嬉しい反面、忙しくなってここでフィアが歌う頻度は減ってしまうのが残念ですが」 不意に店内で静かな拍手が響き渡った。丁度フィアが歌を終え、ステージを降りて行くところだった。 楽屋へと戻りかけたが、降りてから俺とマスターの姿を見つけると嬉しそうな顔で俺たちのところへとやってきた。 「お疲れ様、今回のステージも素晴らしかったよ」 「ありがとうムルト、マスター。あ、マスター、ステージ終わったからステージの間控えていた注文が どどっと来てオーダーが溜まっていますよ。戻らないと…」 「おっといけない、。じゃあムルト君、また今度落ち着いたら話しましょう。君との話、楽しいと私も思ってますから」 「あ、はいありがとう」 マスターが早足でカウンターへと戻ると、入れ替わるようにフィアがグラスを手に、俺の隣に座ってきた。 「今日もきてくれたのね。もう、ジュースばかり飲まずに…ちゃんと食べないとダメよ。 相変わらず痩せたままなんだから…」 「ありがとう、でもお金を今はどうしても貯めなくちゃいけないからなかなかなぁ。 本当だったらこの服もどうにかしたいところだけれど…」 俺はそう言うと、シワが少し混ざったシャツの裾を握りしめた。 ここに立ち寄る前には必ずシャワーで汗を流すことにしているが、旅でボロボロになったシャツ類だけは どうすることも出来なかった。オマケに毛との相性が悪いので、長く着ていてシャツの下の毛が ガビガビになったことも何度かある。 「気にしなくてもいいのに。そのほうがムルト君らしいし」 「そう言ってくれると嬉しいけれど…、スーツやブランドドレスといった服が目立つ客層の中ではどうしても目立つよ、これ。 貯めた貯金を全部使ってもっとちゃんとした服を買おうかな…」 「う〜ん、勿体ないわよ。そこまで気にしているのならば…ちょっと付いてきて」 「う…うん?」 フィアに連れられた先は、俺が街まで歩いて倒れたときに運び込まれた舞台裏の控え室だった。 フィアは脇に置かれていたロッカーを開いて洋服を取り出すと、俺に差し出した。 見ると、きちんと畳まれシワ一つ付いていない襟付きのシャツだ。 「これは…?」 「この店で以前使っていた従業員に支給されたシャツよ、これに着替えてみるといいわ」 「着替えて…って勝手に着ちゃっていいのかい? 使われていないと言ってもこの店の備品なのだろう?」 「大丈夫よ、数年前の格安品だし、ここに置いておいてもホコリをかぶるだけだったし。 サイズが合うといいけれどどうかしら…?」 更衣室でシャツを脱ぎ、着替えてみる。 袖を通すと普段来ているTシャツよりも少し窮屈な気もするけれど、生地の毛触りがよく心地よい。 襟を整えたところで、俺は脇に備え付けてあった鏡で、着替えた自分の姿を見てみる。 「ひゃあ…。」 鏡に映った俺の姿は一瞬別獣かと思える位に見違えていた。 シャツ一枚を変えただけで、こんなにも違うなんて…。 「よく似合っているじゃない。エサにも衣装ね…」 「エサじゃなくてウサギですよ俺は‥。でも、この服のセンスは好きだな‥。欲しいけれど買ったら幾らするんだろう‥?」 「買う必要はないわよムルト君。その服あなたにあげるつもりなのだから」 「ええっ!? フィア、受け取れないよこれは」 俺は慌てて手を振って見せた。数年前の格安品なんて言っているけれど、生地を見る限り決して安い代物ではない。 「いいのよ。マスターの許可はちゃんと貰ってあるから。 だって私ちゃんとした服を着たムルトを見てみたかったのだから。それに…」 「それに?」 俺は聞き返した。普段話すフィアの声より少し柔らかい声だ。 「結構格好いいウサギだから…。もっと好きになりそうだもの…あなたのこと」 「え…!? フィア、それってどういう…!?」 俺がそこまで言いかけたとき、不意にフィアがチュ…と頬に暖かいモノが押しつけられた。 「…!!」 キスだ…と分かった瞬間俺は俺は頭が完全に動かなくなってしまった。 いきなりのことで驚きで何も言えないままの俺に向かってニコッと笑うと、フィアは立ち上がった。 「私はこれで帰らなくっちゃ。その洋服大事に扱ってねムルト君。今度アナタの為の曲を何か歌ってあげるわ」 じゃあね…そういうと彼女は控え室を離れて外のフロアへと消えていった。 あとには、耳まで真っ赤にして立ちつくし、固まったままの俺が一人、そこに残されていた。 暫くしてようやく我に返り、控え室を出てどうにか席へと戻った俺だったが、 先程の言葉がまだ頭から離れて消える気配がなかった。 彼女の言葉が徐々に頭に浮かび上がってきて顔が赤くなってくる。 (もっと好きになりそう…あなたのこと) まさかフィアからこんな言葉を貰うことになるなんて。 さっきのフィアの言葉…誰も聞いていなかっただろうな…。そう思って恐る恐る辺りを見回したその時、 「やったねえっ、この色男っ♪」 「ぎゃっ!!」 出し抜けに頭をポンっと叩かれ俺は耳をピンと立てて飛び上がった。 振り向くと、バックバンドとウエイトレスの両方をつとめる狐のリディがニコニコしながら身を乗り出していた。 性格はフィアとは全く正反対で表情が豊かで口調は明るい。 赤茶色の毛並みに包まれ、短パンにアロハシャツといった男っぽい姿をしているが、こちらもかなりの美獣の女の子だ。 フィアのような恋愛感情はなかったが、ここに頻繁にやってくる俺とは一番馬が合い、 最近では一緒のテーブルで色々話しこむが多かった。きっと誰とでも気さくに話せるリディの性格のおかげだろう。 「ああビックリした‥リディ…いきなり背中から叩くことないだろっ」 「ごめんごめん、でもビックリしているのはこっちの方だよ。おっと、とりあえず隣に座ってもいいかなっ?」 リディはそう言うと、俺の返事を待たずにひょいとさっきまでフィアが居た椅子へと腰を下ろした。 リスの妖精の絵が書かれている瓶からコップへと注ぐと、リディはそのままくいっと飲み干す。 「ふう、やっぱりここの野いちごジュースは最高だなぁ。 とと、とりあえず美獣の恋人ができたムルト君に乾杯! 良かったねぇ」 「…!! ゴホッゴホッ!!」 出し抜けにリディからのこの指摘に俺は咳き込んだ。どうしてそれを知っているんだ? 「あはは、ムルト君って顔と仕草に出るから分かりやすいなぁ。 楽屋の入り口近くでシンセサイザーの設定していたら、中での会話が筒抜けだったよ♪ この幸せモノっ」 余程楽しいのか両手で頭をごしごしと撫でてくる。 揺すられるたびに頭から突き出ている長い耳がパタパタと揺さぶられる。 「わわ、耳をおもちゃにするのやめてくれ、リディ」 「ええ、だってムルト君の耳柔らかくて美味しそうだし…」 「食べる気か! 俺の耳を」 リディの一言にとっさに耳を引っ込めると、俺は身体をよじってテーブルの端へと避難した。 好奇心が強いリディが言うと一見冗談に見えて本当に耳を囓りかねない。 「あはは、本当にしないから安心して。しっかし驚いたなぁ、 あのフィアが男の子に興味をもって告白までするなんて、これまでじゃ絶対に考えられないよ」 「ソレ言われるとフィアが本当に俺のこと好きになったのか不安になるじゃないか。 もしかして、本当は大して好きではなかったり…」 「いや、そんなことはないと思うよ。だってこれまで歌うとき以外で表情を見せなかったフィアが、 ムルト君が来るようになってから少しずつだけど表情を見せるようになったもの。 時々ムルト君の事を話していたこともあったし」 「よかった…。けれどもそうだとすると疑問が残るなぁ、一体どうして俺のこと好きになったんだ」 「ボクもさっぱり分からないねぇ。ムルト君って顔はちゃんとしたモノを着れば結構いい男だけれど、 フィアに言い寄ってきたハンサムな男は他にも一杯居たし。 お金は持ってないから財産目当てってこともまずアリエナイし…。 あとはこの辺りだとムルト君みたいな子って珍しいからそれで好きに…ってコレも説得力がないなぁ。 う〜ん、結局恋って理屈じゃ説明できないね」 不思議そうな腕を組む俺に、リディも左右に揺れるフワフワの尻尾を撫でながら首を傾げた。 「まぁ、恋の話はこれくらいにして真面目な話に変わるけれど、 実際貰ったそのフォーマルシャツ、本当にムルト君に似合ってるよ。フィアってやっぱり見る目があるなぁ。 何かお返しを送った方がいいんじゃないかな?」 「ああ、それが道理だけれどフィアがプレゼントで喜びそうなモノって何かあるかな。 お金あれば奮発してもいいな…って思うけれど」 「高いモノでも喜ぶとは限らないよ。前に高価な金のネックレス片手に言い寄ってきたシバイヌ族の色男が居たけれど、 フィアったらその倍の値打ちはするブランドのネックレスを見せて打ち負かしたって話しすらあるからねぇ。 そもそもフィアならばここでのギャラでどんなに高いモノだって簡単に買えちゃうし」 「だろうなぁ」 リディの言葉に俺をため息をつき肩を落とした。確かにリディの言うとおりだ。 俺の一日分の収入をフィアなら1ステージのチップだけで簡単に稼げてしまう。 ギャラを含めたら相当額のお金を貰っているだろう。 「元気だしなよ。好きな子からの贈り物は別に特に欲しいモノじゃなくたって嬉しいって。 悩んだり無理しすぎることはないよ。もっと耳と尻尾の力を抜かなくっちゃ」 「そういうものかなあ…?」 「そういうものだよ、ボクが保証する。あ、だからって嫌いなモノ渡して嫌われてもしらないよ、ボクは。 ボクにも彼氏が居るんだからセキニンは取れないからねっ」 リディの言葉に、俺もリディもおかしそうに笑い出した。 笑いながらふとあることに気が着いた、自分もこんなに笑うようになったのはここにやってきてからだということに。 笑っているのはフィアだけじゃない。俺もフィアのおかげで笑うようになったんだな…。 やっぱりお礼にちょっと無理してでも、何か買おう。俺はそのときそう思った。 3 忍び寄る影 それから何日か経った後、俺は都市の市街地にあるギフトショップに脚を運ぶと、 店主のネコのお爺さんに頼み奥に置かれていたウサギの水晶細工を出して貰った。 勿論フィアへのプレゼントだ。装飾品やブランド品を欲しがらないフィアだったが、 ウサギのグッズには何故か興味を持っていた。俺のことが好きになったのもそのせいなのかな‥。 「ありがとう。大事にして貰うんだよ」 人の良さそうな店主はお金を払ったときに品物にちょっぴりオマケしてくれた。 背後からの店員の言葉を聞きながら、俺は店を出た。街の中心部だけあって店の外の広い歩道には 買い物に来た獣達で溢れかえっている。 辺りは10階前後のビルが建ち並び、中央を貫く大通りには、ヤシやハイビスカスが街路樹に植えられていた。 街路樹の奥に見える車道では車がひっきりなしに通りすぎている。 これを渡したらどう思うかな、そう思うと心の中で気持ちがわくわくしてくる。 口元が緩むのをこらえると、俺はプレゼントを鞄にしまいそのままシーランドの方角へと歩き出した。 少し歩いた所でビル街を通り過ぎて、更に歩くと街路樹も姿を消し、 代わりに住宅の向こうに海が見え隠れして見えるようになってきた。ここまで来たらシーランドは目の前だ。 「あれっ…!?」 店の入り口近くまで来たとき、中の様子がおかしいことに気が着いた。 いつもの音楽や歌声は聞こえず、変わりに罵声や叫び声、そして野獣のようなうなり声が店の外にまで響いていた。 長い耳をピンと立てて声を聞こうと思ったが、よく聞き取れない。罵声が言葉らしい言葉になっていないのだ。 「何なんだ一体…」 驚く俺の背後から、2台の警察車両が俺を追い越しエントランスの前で停車した。 そこから警官が何人かが飛び出すと、あっけにとられている俺の脇を通り過ぎて、前方のエントランスへと走り去った。 俺も慌てて後を追うように、開いたままのエントランスをくぐる。 「%#$”&#(’$&$(#!!!」 「おいっ、いい加減大人しくしろ!!」 「おまわりさん、こいつらです、早く…ウワッ!!!」 (バタンッ、ガンッガッシャーンッ!!) 店内に入った途端内部のざわめきと罵声が耳にガンガンと響いてきた。 普段の高級酒場とは思えないような騒がしさだ。 「ムルト!」 「あっ、ムルト君!」 エントランスを入ってすぐに、俺は入り口近くで立ちつくして居たリディとフィアにに呼び止められた。 ざわめきで聞き取りにくいけれど、普段陽気な筈のリディの話す声がいつもより僅かに震えていた。 フィアも硬い表情で目を伏せている。 「フィア、リディ、一体何なんだこの騒ぎは…?」 「散々だよ。急に客の二人組が店の中で暴れ出して…見てご覧、ほら、あそこ」 リディが指さした店の中程に目を向けると、中程で人が集まり、何かを取り囲んでいる。 「人だかりでどうなってるのか良く見えないな‥どんなやつだったんだ?」 「…灰色の毛皮したイタチ‥って見た方が早いや。行ってみようムルト君」 そう言うとリディは手招きして人の集まる所へ駆け寄った。直ぐ後ろをおれとフィアが続いていく。 「気を付けて、さっきまで酷く暴れていたからあまり近寄らない方がいいわよ‥」 人だかりの隙間から覗き込むところで、フィアが小さな声で呟いた。 見ると、二人の雄のイタチの若者が唸るような声を上げて先ほど駆けつけた警官にうつぶせにされて取り押さえられていた。 来ているモノは上質らしい紺のスーツをまとっていたけれど、口からよだれを垂らし、尻尾が痙攣して明らかにおかしい。 普段は見ることのない牙もむき出しになっている。 「あいつら大人しく酒飲んでいたんだけれど‥いきなり暴れ出したんだ。 フィアが歌っていたステージにいきなり上がり込んできてもうメッチャクチャ。 ガードの人が押さえつけたのだけれど手が付けられなかった…」 「それで警察が駆けつけたのか」 「そうだよ、さっきまで瓶は投げつけてくるし机ひっくり返すし散々‥やだ‥なんなのあの目‥」 「目? 目がどうしたんだ‥?」 俺がそう言いかけたとき、連中の頭で見えなかった目がチラリと見えた。 途端に背筋がぞくっと凍り付く。開いた目は焦点が合わず、虚ろなままで宙をさまよっていた。 眼球は異様な方向に動き回り周りは血走り異様に血管が浮き出て見えた。 最早正気の獣の目ではない。発狂してる…。 「…なんだあれ…。まるでゾンビだ…」 そう呟いて身を人垣から身を乗り出したその時、 不意に取り押さえられた一人がこちらを向き、俺たちと目があった。 と、同時に四肢と顔を滅茶苦茶に振り回し暴れ出した。 「うわっ!!」 「ヤバイ、こいつらフィアを狙って…わぁっ!!」 脇でリディが叫んだその時、暴れていたイタチの若者が警官を突き飛ばし立ち上がった。 一瞬こちらを尋常ではない目でギロリと睨み、次の瞬間には俺とフィアの方に向かって大口を開けて突っ込んできた。 「キャアッ!!」 俺の背後からフィアが悲鳴が耳に響く。後ろにフィアがいる以上逃げられない、そしてよけられない!! 「ムルト危ない!!」 (ガッ!!) 俺はとっさに片足を上げ、突っ込んできた相手を押しとどめた。 そのまま身体を踏ん張りギロリと睨む相手をにらみ返す。 「!##&!! どけ…よこせ!!」 脚で押しとどめても発狂したイタチは尚も暴れていた。 どさくさで俺の頭めがけてイタチの腕が伸びる、俺の長い耳を振り回すつもりだ。 「ムルト!!」 「ウサギを…なめるなあっ!!!」 フィアが叫んだ瞬間、俺は伸びてきた腕を振り払った。同時に両脚へ思い切り力を込め、 そのままごろつきを蹴り飛ばした。脚力だけなら大型獣にも負けないウサギ族の至近距離のキックだ。 威力はハンパではない。 「ギャッ!!」 ウサギのキックをまともに喰らったごろつきは、ほんの少し宙に浮いて仰向けへ床へと倒れた。 今度こそ起きあがる間もなく警官に数人がかりで取り押さえられ、耳や尻尾までを掴まれ拘束された。 「…!! …!!!」 拘束されても連中はなにやら聞き取れない言葉を喚いていた。 けれども最早お話にならないと判断されたのだろう、連中は警官達にそのまま抱え上げられると、 引き立てられて強引に店の外へと連れ出された。多分もう、二度と店に現れることはないだろうな…。 「ふうう‥」 狂った二人の姿が消えたところで、俺はため息をついた。 緊張で身体中の茶色の毛にべっとりとした汗が滲み出ていたことにようやく気が付く。 散らかった部分は従業員やそれを手伝うお客で元通りに片づけられ、騒がしかった店内も静けさを取り戻した。 但し、重い空気まではぬぐいきれなかったようで、いつもよりも店内は暗い雰囲気が漂っていた。 入り口付近でマスターが険しい顔で警官と話している姿が見える。 「大丈夫かフィア…?」 「う…うん…でもこの服はもうダメね…。着替えなくっちゃ…」 フィアが頷いたが顔色が真っ青でウソだと直ぐにわかった。よくよく見ると、 フィアの服があちこち破れていることに気がついた。先程の騒ぎでいつの間にか破れたのだろう。 際どいところは破れていなかったのが幸いだった。 「一旦控え室に行くわ…それと…ムルト格好良かった…」 「あ…ありがとう…」 青い顔のまま控え室へ消えていったフィアの後ろ姿を見届けると、俺は手ぬぐいで流れ出る汗を拭き取った。 服は仕方ないけれど、怪我をしなくて本当によかった…。 ホッと胸をなで下ろして開いているテーブルに腰掛けたその時、 俺の直ぐ後ろでリディがバックバンド仲間のレトリーバーのレグと話し声が聞こえてきた。 「一体なんだったのあれって…お酒で酔っぱらったとは違うよねぇ?」 「違うだろ。あんな悪酔いする酒をマスターがこの店に置くはずないし。 そもそもあの暴れようは泥酔ではまず無理だ。麻薬か何かで精神でも錯乱したんじゃないか?…」 「麻薬? とっくに根絶されんじゃないのそんなもの。まぁ、警察が色々調べてくれるだろうけれど、 もし麻薬のせいだったらあの二人組は自業自得だねぇ。檻に入ってちゃんと反省してして貰えばいいやっ」 リディはそう言うと、明かりが戻ったステージを見た。 ステージでは時折見かけるミニスカートの白猫の女性が歌い、笑い声が時折聞こえてくる。 ようやく店はいつもの雰囲気を取り戻してきたみたいだ。 「それにしてもムルト君、フィアを庇って助けるなんてさすがだねぇ。 あんな身体を張って守ったんだもの、これでフィアのハートはますます君のものだねっ?」 「……。」 いつもの調子を取り戻したのか木いちごジュースのグラスを片手にリディが冗談交じりで話しかけてきたが、 俺は冗談を帰す余裕はなかった。落ち着くにつれ、先程感じだ違和感を思い出してきたからだ。 あの二人組は一見フィアを狙っていた様だけれど、どうも不自然な点があった。 視線はずっとフィアではなくて俺に向けられていたし、目つきも俺を見るなりまるで獲物を見つけたように 血走った目のまま焦点が合っていた。となるとまさか…。 ぞっとして背中の毛が逆立った。あいつらが狙ったのはフィアじゃない…。 「どうしたの…、随分と怖い顔をしているけれど」 俺の様子に気が着いたのだろう。不安そうな声でリディが尋ねる。 「あいつら…狙ってきたのはフィアじゃない、俺だ‥」 「えっ!?」 驚く二人に、俺は先程の連中の様子を詳しく話した。 リディは半信半疑ながらも、何も言わず俺の言葉を聞いていたが、レグは話していくうちに、 驚きの表情から険しい顔つきへと変わっていった。俺が話し終わったところで、レグが厳しい表情のまま尋ねてきた。 「ムルト君…。 以前、ムカシウサギとか言われたことはなかったか?」 「ムカシウサギ…? ああ‥そういえば生まれた村でそう言われていたけど‥」 ‥俺の答えにレグはやはりな…というように頷いた。 「ムカシウサギって確か辺境の希少種族よね…。普通のウサギとどことなく違うな、と思っていたけれど…。 あ、でもムルト君がそのムカシウサギだと、どうしてあいつらが襲ってくるのさ?」 「麻薬病の治療にムカシウサギの血清を使われているんだ。けど、ムカシウサギって希少種だろう? なかなか血清が手に入らないから、ヤケになってムカシウサギを襲って血を奪おうとしている連中が出てくるんだ。 発狂したらおつむはいかれても鼻は利くみたいで気が着くらしい。さっきお縄になったあいつらがその例だな。 まぁ、こっちは病院に市販の血清を充実させれば問題はないんだが…」 レグが急に話す声を潜める。 「ただ、麻薬病の連中にムカシウサギということがバレたのはかなりヤバイ。 こんな事言うのは辛いけれど、ここには暫くの間、出入りしないほうがいいと思う…」 一瞬耳を疑った。その言葉にリディが俺が口を開くより先にレグの尻尾に飛びついた。 「レグ、何言ってるのよアンタって犬はっ!!」 「イテテテ!! 俺の尻尾に爪を建てないでくれ…イテ、痛いって! 別にムルト君に嫌がらせしたくてこんなこと言ってる訳じゃない。実際にホントにやばいんだ。 俺の実家って薬屋だけれどここ何年か裏でムカシウサギの血を探し回ってる地下グループの噂がある。 詳しくはしらなけれど…麻薬や許可の下りない治療薬を作って、最近じゃ薬になる希少種が居たら誘拐するとも… 要は犯罪グループだな、そいつら。今回の騒ぎでここにムカシウサギがいるっていずれは連中もかぎつける。 遭遇したらやばいぞ、本当に 「何ですって…?」 ハッとしたような表情でリディが呟いた。グラスが震える手から滑り落ち、 テーブルの端へと転がっていったがリディは見向きもしなかった。説明を続けるレグも、表情は変わらなかったものの、 俺から目を逸らしていた。 「それじゃあ犯罪グループが居なくなるまでココに出入り出来ないッてことじゃない。 それってムルト君があんまりじゃないかっ…!?」 「気持ちは分かるけれどまずは落ちつけ。ほとぼりが冷めたらまた出入りできるようになるって。 ‥でも確かに‥ムルト君が不憫だ」 「本当の話なのそれ?」 不意に背後から、着替えが終わったフィアが声を掛けてきた。 先程よりは足どりはしっかりとしていたけれど、顔色がまだ悪いのが気になった、いや、寧ろ更に悪くなっているような…。 「フィアもお疲れ様、大変だったよねぇ。今日はこれでお帰りかな?」 「うん、時間は過ぎているし、少し休みたいから…。送迎の車を電話でお願いしたわ」 「それもそうだよね…。あ、フィア、送迎車で帰るならムルト君も便乗させてあげなよ。 ムルト君を元気づけて欲しいし…お願い。ムルト君はそれでいいよねっ?」 「う‥うん。」 俺は頷いた。リディの言葉に押されたというよりも、 先程の話がショックでまっすぐ俺の滞在するアパートに帰る気にはならなかっし。フィアともう少し話がしたかった。 「分かったわ…。あ、リディ、私の代わりに向こうのお客さんに頼まれたサイン、渡して貰って良いかしら?」 「いいよ、じゃあムルト君、フィアとお話しして元気出して。戻ってきたらめいっぱいサービスしてあげるかねっ」 リディははそう言って立ち上がると、テーブルから離れた。 後ろ姿を無言で見送る俺に、フィアが静かな声で話しかけてきた。 「元気出して。ムルト君にならここじゃなくても歌をいつでも聞かせてあげるから‥」 「ありがと‥。フィアの歌を聴くのが数少ない俺の楽しみだからそうしてくれると嬉しいよ…。でもどうして俺が‥」 そこまで呟いたとき、俺の頭は急な眠気に包み込まれた。これまでの疲れがどっと出てきたせいだろうか。 「悪い方ばかり考えちゃダメよ。きっとムルト君の疲れが溜まっているせいね。 車がもうすぐ来るから横になって待つといいわ。寝ていたほうがいいかもね」 フィアの言葉に甘えて座っていたソファに横になったその時、フィアが再び話しかけてきた。 目を閉じていたので彼女の表情は分からない。ただ、いつもより声が震えているのがきになった…。 まだ先程の恐怖が残っているのだろうか…、それだけではないような気がする。 「わたしから一つ、聞いて良いかしら? わたしの歌、よく聞いていてくれていたけれど、そんなに聞いていて楽しかった?」 「楽しかったよ。放送局でも歌えるようになったら、絶対応援するんだ。フィアならその才能あると思ってるし」 「そう…。可哀想ムルト君…。全部…全部私がいけないの…」 フィアの質問とこの言葉にチラリと疑問をかすめたが、 既に眠気に覆われていた俺はそれ以上の判断は出来なかった。 間もなく、俺は完全に眠気に支配され、そのまま眠ってしまった。 「ゴメンナサイ…」 この時、フィアが微笑みと悲しみの入り交じった表情で、 牙をチラリと見せていたことに、俺はこの時は気がつくことはなかった。 4 フィアの正体 (ガチャ…) どのくらいの時間が経過したのだろうか、ふと、何も聞こえなかった俺の耳に高い金属音が響いてきた。 その音と同時に、俺の意識が徐々に戻っていくのが分かった。 「ここは…?」 まだ朦朧とする意識をを無理矢理起こし辺りを見回すと、俺は薄汚れた部屋にベットで寝かされていた。 2,3メートル四方の小さな部屋で、壁や天井にヒビや汚れが至る所に拡がっている。 かなり使い古された部屋のようだが見たことがない場所だった。 窓がなく熱気が抜けずに部屋を漂っている為か、妙に蒸し暑い。 「なんで…こんなところに俺が…?」 吹き出る汗を拭いながらそう呟くと、記憶を掘り起こした。 海辺の酒場で騒ぎに巻き込まれて、その後フィアと店を出て…送迎車に乗せられてからの記憶が途切れている。 そういえば一緒だったフィアがここには居ない…何処に行ったのだろう。 考えても答えは出てこない、とりあえずこの部屋を出よう…。 そう思った俺は、起きあがると、直ぐ脇にあった部屋の扉に手を掛け…。 「あれ…?」 (ガタ…ガタガタ…) 扉は僅かにがたつくだけで、それ以上は動かなかった。 多分外から鍵を掛けられているのだろう。どうやら俺はここの小部屋に閉じこめられたみたいだ。 「何故…一体どういうことだ?」 俺がここに閉じこめられるような理由なんて分かる筈がない。 混乱しかかっているその時、扉の向こうから誰かが話す声が耳に響いた。 今の声は間違いなくフィアだ。 …彼女を呼ぼうと息を吸い込んだ次の瞬間、俺は、ハッと口をつぐみ耳を扉に押しつけた。 彼女とは別のガラの悪そうな声が聞こえてきたのだ。 「いくら希少価値があってもあんな物では売り物にはならんな。 もうちょっと変わったところとか物珍しいところはなかったのか?」 「それでもムカシウサギなのは確かよ。別に珍しく無くても、居るだけで十分価値はあるわよ。いわば、歩く黄金ね」 (地下グループだこいつら) …頭の中に先程のレグの言葉が浮かび上がった。 (最近じゃ薬になる希少種が居たら、捕まえて…) その希少種の一人がムカシウサギの俺のことだろう。 目が覚めた俺には気がついていないらしく。更に言葉が続いて聞こえてきた。 「それにしても俺たちも運が向いてきたな。 わざわざ廃村にまで向かわなくても、金づるがこっちからやってきたのだからな」 「ええ…、そうよね…」 フィア達の会話から徐々に状況が飲み込めてきた。 どうやら連中は俺がムカシウサギと知り何かに利用するつもりらしい。 まさか本当に遭遇することになるなんて…。 けれど今はそのことを考えるよりも腹の底にどす黒い悲しみわき起こっていた。 俺は初めて好きになった彼女、フィアに騙されたのだ。 「まぁ…暫くはここに放り込んでおけ。俺は下のフロアで薬でもつくっとく。 ここの病院は閉鎖されていて獣が入る心配はないが、見つかったらめんどくさいからな」 その言葉の後、階段を下りる足音が聞こえてきた。 やがて足音は小さくなり俺の耳にも聞こえなくなった。 鉄格子から外を見ると、見えるのは輝くような白い身体…やはり先程の声はフィアだった。 「ちょっと可哀想だけれど…ね」 「ちょっとだけなのかい…、フィア」 出し抜けに聞こえてきた俺の声に、フィアは耳をピクッと動かすと、恐る恐る後ろを振り向いた。 申し訳なさそうな、そして哀れむような表情が目に入った。 「ムルト!? …起きていたの?」 「さっきからね…。どうやら開けてくれ…といっても開けてくれないみたいだな…ここ」 俺はそう言うともう一度扉に手をかけ、さっきより力を込めて扉を揺さぶった。 無論、扉はガタガタと音をたてるだけで全く開く気配はない。 「ごめん…なさい…」 フィアが小さな声で答えた。後ろめたいという自覚があるのだろう、悲しげな顔をして口を噤んでいる。 「さっきの話を聞いていたからあいつらの素性や目的は大体分かった…。 でもどうして君がこんなお金の事しか考えない連中と一緒に居るんだ? あいつらはともかくフィアは少なくともお金に困ってない筈だろう?」 怒りと悲しみを抑えているつもりだったけれど、話す声が震えるのは隠しきれなかった。 フィアもそれを察したのだろう、俯いて普段は後ろで揺れているフワフワの尻尾は、今は隠れるように垂れ下がっている。 「本当にごめんなさい‥ムルト‥。‥薬が欲しかったのよ‥」 「薬って誰か家族で麻薬病にかかったのか…? あ、でもフィアって確か一人暮らしだったはず」 「家族なんかいない‥。発病したのは私自身よ‥」 「何っ!」 震え声で話すフィアに俺は目を大きく見開いて彼女を見た。信じられないそんなこと…。 「もう大分前から発病してた…。風邪を引いたときに薬売りに騙されて麻薬を飲まされたことがあったの。 勿論病院に行きたかったけれど、この街にはムカシウサギの血清なんてなかったから、 治療が終わるまで何ヶ月も病院に入院することになるわ。 丁度その頃わたしは、歌姫として軌道に乗るかどうか大事な時期だった…。 だから入院するわけにはいかなかった…。悟られないように声も表情も感情を出さず過ごしてた…」 お腹にため込まれていたフィアへの怒りが少し和らいだ。その時の彼女の気持ちが少し分かる。 最初に会った頃の無表情と淡々とした口調はおそらくその為だったのだろう…。 「そんなとき、あの連中が私に近づいてきた。私が病気だってことは直ぐに見抜かれたわ。 治療薬を優先的に回す変わりに、素体となるムカシウサギを探すことを持ちかけられたの。 その誘いに乗ったかどうかは‥もう言わなくても分かるわね‥」 「もしかして僕に近づいたのは、俺がムカシウサギだって知っていたから?」 「…ううん、今日の事件まで分からなかったわ。面白そうなウサギがやってきた…その程度しか考えてなかった。 でもずっと一緒に居たけれどあなたって優しかった…優しすぎるくらいよ…。 ムルトの喜びや悲しみ、そういったのがみんな私の心にまで伝わってきた位だもの…。 それは本当よ。だからムカシウサギだって分かったときも、アナタを素体にしようだなんて本当はしたくなかった。 でもあの騒ぎで、発狂したあの二人を目の当たりにして、いずれ私もああなると思ったら…」 ごめんなさい…聞き取れない声でそう言うと、フィアは泣き出した。 扉に背を向けてよりかかると、そのまま座り込んだ、フィアの姿は見えないが、 扉越しにフィアのすすり泣く声が扉越し聞こえてくる。 「…これから俺はどうなるんだ…?」 「分からないわ‥。薬になる血液はもう採取したけれどその後ムルトをどうするつもりかは決めていないみたい…。 命を取られることは多分無いと思うけれど…」 「そうか…。フィアを責めるつもりはないよ‥。でも‥なんだか悔しくて‥悲しい‥」 「ムルト…お詫びに何か食べたいもの…」 「イラナイ、何も食べたくないよ…」 「じゃあ…、食べ物じゃなくても他に欲しいモノがあれば…」 「いらない! 幾らモノがあったって‥悲しい気持ちなんて和らがないよちっともっ!」 少し声を荒げて扉に背を向けると、俺はベットに横になった。 悲しい思いが強くなって胸が苦しくなってきた。 「ムルト‥一つ聞いても良い‥?」 俺は答えなかった。耳だけを立ててフィアの方へ向けて次の言葉をまった。 「私のこと‥好きだった‥?」 「今だって好きだよ‥。だから怒りたくても怒れない」 「優しいのね‥。私ももう行くわ。 何も食べたくないって言っていたけれど…そこの机に食べ物置いたから…もしお腹すいたら食べて…」 「ねぇ…。行く前に俺からも一つだけ…好きだという気持ち…これは本当だったのかい…?」 「え、ええ‥」 俺の問いかけにフィアは頷いたが、俺にはあることが分かってしまった。 ウサギの耳がこの時だけは恨めしい。 「フィア‥今声が詰まったね‥?」 「…えっ、そ、それは…」 「否定しても俺はムカシウサギだよ。声でなくても息や気配で大体は分かった‥。」 「‥‥」 「正直に言ってくれ‥、フィア‥」 言うのを余程ためらっていたのだろう、フィアが再び口を開いたのは少し時間が経ってからだった。 「‥‥‥ムルト、さっき気持ちが伝わってきたのは本当のことよ…けれど…」 「…。」 「それって‥愛というより同情‥ね…」 フィアの最後の言葉は、もう声が震えて殆ど聞き取れなかった。 最も既に俺は彼女の言葉に頭がグルグルと回っていた。 「ごめんなさい…本当にムルト‥ごめん‥」 絞り出すようにそれだけ言うとフィアは廊下から階段へと姿を消していった。 少しの間小さな足音が階段から聞こえていたが、やがて聞こえなくなり、俺一人が閉ざされた部屋にとり残された。 騙されたこと、薬と見なされていたことより、孤独が未だに続いていることが何よりも辛かった。 「畜生‥何を支えに‥俺は生きたらいいんだよ‥」 ベットへがっくりと座り込むと俺は泣き出した。 泣き声がずっと長い間部屋の中で響いていたのだった。 5 悲しみと危機! 腕時計は持っていないし部屋には時計がないのでどれだけ時間が経過したのかは俺には分からない。 泣き疲れた俺はぼんやりとした意識のまま、上を見上げ、壁にもたれかかるようにへたり込んだ。 僅かに残った涙が目を覆い、汚れた天井がぼやけて見えたけれど、今は拭き取る気力も無い。 気力が消え去り、お腹が空いたかどうかも分からなかった。 それでも気を紛らわそうと重い腕を動かしフィアが置いたニンジンパイの包みを開けてみた。 一番大きな一切れに齧り付く。 「まずい‥」 俺の一番の好物だったのに‥。食べ物を食べて、不味い‥と思うなんて何年ぶりだろう‥。 「やっぱり…一人だと味を忘れちゃうんだな‥」 無理矢理パイを喉の奥へと飲み込むと、むさぼるように俺は口に次々と詰め込んだ。 3口、4口めからはパイが涙で湿り、何も味がしない湿ったゴムを囓っている気分になっていた。 (やっぱり…俺はまだ独りぼっちだったのかな…) すり減らしていた気持ちがとうとう限界に来た。 どんなに手足を動かせたって、一人だったら心の哀しみはなくせない…。 もう森に帰って、そのままで一生を凄そうか‥。 まさにその時だった。 (キャアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!!) 突然下の方からガラスが砕け散る音が鳴り響いた。 一瞬の沈黙の後…ケモノ達の奇声に怒号、時折悲鳴も響いてくる。 「なんだ…!?」 俺は立ち上がると扉から外を覗き込んだ。 程なくして階段から少女が一人姿を見せてこちらへと駆け込んできた。 先程の静かに立ち去った時とはまるっきり違い、もの凄い勢いで扉へと迫ってくる。 「ムルト!!」 「え‥? …うわっ、フィア…どうし!!」 (バアアンッ!) フィアは足を緩めずそのままぶつかるように扉の窓に飛びついた。 衝撃で扉がビリビリと振動し、扉にぶつかった衝撃が耳へと伝わってくる。 「ムルト‥逃げて!! 早くしないと‥危ない!!」 息を整える間もなくフィアが叫んだ。いつものフィアの声からは想像できないせっぱ詰まった口調だ。 よく見ると、来ていたワンピースの服が破れかかっているのが見える。かなり怖い思いをしたのだろう、 下から再び悲鳴と共に何かが砕ける音が響くと、耳を伏せて縮こまっていた。 「落ち着けフィア! その服はどうしたんだ!?」 「グループのメンバー達に襲われた‥。急にみんな正気を失って発狂してる。治療用の薬を注射したはずなのに」 「治療薬‥、ってさっきこの町にそんなモノはないって言っていたんじゃ?」 「さっき作ったの、私がムルト君と話していたとき、みんなムルト君の血液から血清を取り出してそれを‥」 「なっ‥そんなもの作ったのか!? 原因はそれだ、精製方法を間違えて薬じゃなくて毒を作ったんだよ!」 うわずった声で俺は叫んだ。血清の治療薬で一歩調整を謝れば薬も毒となる。 おそらく材料と機器が揃えられたものの乏しい知識で製造したせいで、 意識障害を起こす毒薬が出来上がったのだろう。 「もうそいつはら正規の病院行きは免れないな‥。それで下の状況はどうなってるんだ?」 「もう滅茶苦茶よ。理性がなくなって破壊と強奪、殺‥ううん傷つけあいもしてる。 ‥逃げないとムルトも襲ってくるわ‥逃げて!!」 「逃げようにもカギはどうするんだ、開かないぞコレ?」 「え…!? あっ、いけないっ、カギはキーボックスの中…。」 (バァァァンッ) 「キャアッ!!」 突然、扉の外で、何かがモノを叩きつけたような音が鳴り響いた。 見ると、目が血走ったキツネ族が金属の大缶を蹴飛ばしながらこちらへと向かっていた。 焦げ茶に近い茶色の毛で包まれ、その上に高級なスーツを身に纏っていたが、ボロボロに破れて見る影もなかった。 「Grrrrrrrrrrr‥!!」 目は酒場で発狂した時の連中と同じように血走っていた。うわ‥、こいつらもよだれを垂らしてるぞ。 とっさに身構えたが、発狂したキツネは俺と視線を合わせることはしていなかった。 いや、よく見ると視線は俺でなくて今の狙いはフィアへ向けられている。危ない!! 「まずい!! フィア逃げろ!」 「え‥でもムルトが‥!?」 「俺は何とでもなるからいい、こんな奴らに夢を潰されるな‥行け!」 俺の言葉に逃げるのを躊躇していたフィアは、廊下の先へと走り出した。 けれどもその後を発狂したキツネが後を追う。とっさに転がっていた金属片を投げつけたがダメだった。 近くで壁にぶつかり高い金属音が響いたが、キツネは音には反応せずそのままフィアが消えた先へと消えていった。 「まずい…!! このままじゃフィアが危ない。」 俺はドアを強引にこじ開けようとガチャガチャと力を込めて揺さぶった。 無くなったと思っていた力が、再び湧き出していたことに気が付いたが今はそれどころじゃない。 扉が開きそうにないと分かると俺は今度は後ろに下がり、思い切り体当たりをぶちかました。 身体に衝撃が伝わってきていたけれど、俺は夢中で身体を扉にたたきつけた。 (ガン‥ガンガン‥バァァァンッ!!) 「ハァ‥ハァッ‥。畜生‥なんで開いてくれないんだ‥!」 びくともしない扉に何度か体をぶつけたところで、俺は荒い息をしながら悔しげにドンッと壁を叩いた。 ダメだ、バールか丸太でもなければとても開きそうにない。 何 かないか‥、俺は部屋をベットを倒し、椅子を蹴散らし‥。 と、椅子を蹴散らしたところでひっくり返った椅子の鉄パイプが目に入った。先端が潰れて尖り鈍い光を放っている。 「あっ…これならいける!」 すぐさま俺は、そのバール状の鉄パイプをドアの隙間へと二度、三度と突き立てた。 渾身の力で押し込め、ドアをこじ開ける。 (バキン!!!) 不意に何かが砕けたような高い金属音が響き、 かたくなに動かなかった扉が急にガタガタ揺れだした。 「よし‥これでなら‥」 扉から後ろに下がり、息を大きく吸い込む。 彼女への怒りは既にどこかに消え去った。やっぱり今でも俺はフィアが好きだ…。だから絶対助けるんだ。 「行くぞ!!」 俺は身体に力を入れて壁を思い切り蹴り、扉へと再び体当たりをぶちかました。 (ばぁぁんっ!!!!!) ぶつかると同時に 扉は今度こそ破れた。勢いで俺はそのまま廊下へと投げ出され、 扉は開きっぱなしのままで動かなくなった。 「やった…イテテテテ」 肩を押さえながら俺は立ち上がった。ぶつかった所がヒリヒリするけれどたいしたことはなさそうだ。 閉じこめられていた部屋を見ると、かすれたネームプレートに503号と書かれているのが見える。 ここは5階だったのか‥。と、その時バタバタ‥という足音と共に廊下の角からと黒い影が現れた。 異様に細く長い尻尾のシルエット…フィアでも先ほどのキツネでもない。 「ムカシウサギ‥だ‥! こいつだ‥こいつの血を吸えば助かるんだ!!」 「止まれ‥、あ、まて!! 飲むのは俺が先だ!」 「どけっ!俺だ!!」 飛び出してきたのは、毛がクシャクシャになった猫族の二人組だった。多分扉の音を聞きつけたのだろう。 連中の言葉に俺は答えなかった。代わりに、足を思い切り踏み込むと俺はもみ合っている二人へと突っ込んだ。 駆け抜けざまに飛び上がって二人の腹を思い切り蹴り飛ばす。 「ぎゃっ!!」 尻餅をついた二人のの脇をすり抜けると、俺はそのまま階段の降り口へと走り抜けた。 二人が追いかけてくる気配はなかった。気になった俺が階段の手前で振り向いてみると、 俺はぎょっとなってその場で立ち止まった。 「!?一体どうしたんだ‥。」 二人は未だにそこに倒れたまま、足をバタバタさせていた。倒れたままの姿勢でお互いの毛を毟りあっている。 発狂が更に進行してこうなったみたいだけれどどう見ても異常だ。 内心ホッとしたものの脳裏に不安がよぎる。他の連中も発狂していたとすると、今頃はこいつらのように…。 「まずい!!」 あんな連中が他にもいるとすると俺もフィアも命が危ない。 詮索は二の次、今はここから出ることが最優先だ。俺は不思議と不安に駆られながら階段を駆け下りた。 最後にもう一度二人を見ると、もはやこちらを見向きもせず、体毛を床へと散乱させていった。 5階から4階、4階から3階、3階から2階へと一気に駆け下りる。 床があちこちで剥がれ所々に金属缶や板きれが散乱していたが、俺は構わず突き進む。 途中3階の踊り場に一人発狂した男が居たが、蹴散らしてそのまま駆け抜けた。 先程まで響いていた悲鳴や破壊音は殆ど消え、襲ってくる獣は殆どいなくなっていたが、 不気味なほどの静けさに一層不安にさせられていた。 「……!!!!」 2階から1階へ降りようとしたその時、気配と声が近くの部屋から聞こえてきた。女性の声だ。 ‥一瞬フィアの声かとドキっとしたが、良く聞くとフィアよりも幾分濁った声をしているが分かった。 よかった、どうやら連中に捕まってはいないようだ。 部屋のガラスは所々無くなっていて部屋の中を覗くことは簡単だった。 中にはパイプベットやテーブルがいくつか置かれてホコリをかぶっているのが分かった。 元はおそらく休息室だったのだろう。けれども俺の注意を引いたのはそのテーブルの一角に居た中の連中の方だった。 「はぁっ…はぁっ…どうせ病気は治りゃしないんだ。 薬でみんな発狂してしまったんだし俺たちだっていいよな…もう好き放題狂って生きたって…ふ…んんんっ!!」 「そぉよっ、酒も麻薬もみんなあたしのモノ‥みぃぃんなっ」 部屋に居たのはソウゲンオオカミの男とヒツジの少女…。 二人とも目が虚ろで正気を失っているのは一目で分かった。手にしているのはウォッカやジン‥。 水や氷で割らずにストレートのままグラスに注がれている。よく平気で飲めるなそんなもの‥。 「ああっ、飲み足らないわね‥もっともっと‥飲み‥‥。」 グラスのジンを飲み干した羊の少女はそこまで言うとばたりと倒れた。 流石にもう麻薬と酒で身体が限界だったのだろう。ソウゲンオオカミも瓶に残ったジンをぐいと飲み干すと、 座ったまま動かなくなった。酒瓶が倒れてジンががテーブルを伝って床へと流れていたけれど、 もはや流れる酒に関心を持たなかった。 俺はそれ以上その光景を見たくなかった。 部屋から離れようと三歩歩きかけたその時、息絶え絶えの女の子の言葉が俺の耳にはいり、俺は凍りついた。 「捕まえた白狼…より私のほうが…いいでしょ…? 地下に行くよりここでずっとずっと一緒に…狂いましょ…ねぇ」 (何…!?) 白狼はフィアのことだろう。 もし、こいつらのように自暴自棄と発狂が重なった連中に捕まったのだとしたら…結果はもう想像したくない。 今だに甘い声混じりの息が漏れるその部屋をそっと離れると、俺は階段へと駆けだした。 フィアが危ない、急がなくては! 1階を過ぎて更に地下へと階段を駆け下りる。 上のフロアより一層暗い世界が拡がっていたが外部から光が入りどうにか目を凝らせば見渡せた。 廊下はすぐ目の前で行き止まりになり、その脇で部屋が一室のみ。と、いきなりその部屋から白い塊が飛び出してきた。 「フィア!!」 俺の言葉に一瞬ビクッとしたが、 俺の姿と分かるとホッとしたように飛びついてきた。 「ムルト…!」 飛びついたフィアの目には涙が浮かんでいた。見るとワンピースは更に破れ、 所々で滑らかな白い毛皮が露わになっていた。スカートが一番酷く千切られ、俺は慌てて視線を上に逸らした。 「大丈夫か? その服もしかして」 「うんっ‥リーダーが襲ってきたの‥。怖かったわ…。 耳に噛みついて逃げ出したけれど中にまだ……あっ!! ムルト危ない!!」 (バシイッ!!!) 「ぐうっ!!!」 鈍い音と同時に、俺の右肩に鋭い痛みが駆けめぐった。 痛む右腕が痺れて思うように動けない。肩も抜けたような感触だ。 「クソッタレ…だぁ…お前が悪いんだ…みんな…」 肩を押さえて何かが飛んできた方を見ると、斧のような刃が付いた鉄棒を抱えたイヌの若者が立ちはだかっていた 。薬特有の効果で身体は震えていたものの、まだ言葉と意識は残っているみたいだ。 「…何が薬になる血だこの畜生…。これでみんな病気とおさらばになると思ったら…。こ…この疫病神め」 勝手に作って自滅したのに誰が疫病神だ。 俺が睨むとイヌの若者は悔しそうな顔で睨み返す。 「てめえなんか…消えてしまえ!」 (バシィッ!!) 再び鉄の棒が振り下ろされたが、今度は身体の反応は素早かった。 俺は素早く飛び下かり、俺を狙った棒きれは地面に叩きつけられた。 その一瞬の隙をついて、俺は手近にあった金属びんを投げつけた。 (ギャッシャンン!!) 「かは…あっ!」 男がよろけたところで、追い打ちとばかりに鉄棒の刃ごと男を蹴り飛ばす。 その勢いで棒きれは脇に転がった。転がった鉄棒を素早く取り上げると、 俺は身構えて再び立ち上がったイヌの若者へと歩みよった。 「自分のセキニンを他の連中に押しつけるんじゃない!! 俺がムカシウサギの疫病神だと…ふざけるな!!」 「ひ…、う、動くな…! 銃で撃ち殺されたくなかったら…。」 男の脅しにも構わず俺は彼の向かって歩く。本当に銃を持っていたら既に使っている。 「ま、まて…男ならばそんな卑怯なことをせずに堂々と…ひゃあっ!!」 (バシィッ!) 悪党の言葉に構わず刃の部分を反対に向けて鼻先に一撃をお見舞いすると、 男は仰向けにひっくり返った。と、そのまま男は起きあがらず、何も話さず床でバタバタと手足を動かして藻掻いていた。 毒がようやく全身に回り出したのだろう。 「ふう…危なかった」 虚ろな目をして自分の毛をむしり取るイヌの若者をみて、俺はため息をついた。 俺のせいじゃないとしても、この光景を見ていると本当に自分が疫病神になったみたいな気がしてならない。 「もう二度と俺にもフィアにも近寄るなよ…」 イヌの若者に怒鳴りつけたその時、俺は急に膝の力が抜けてがくりと崩れ落ちた。 おかしい、膝に力が入らない。 「大丈夫…!?」 倒れそうになった俺を支えようと、フィアが身体に手を回し俺とフィアの毛と毛が重なった。 その途端、フィアはハッと息をのむと俺の腕を食い入るように見つめてきた。 「ムルト…この血はどうして…!?」 フィアが指摘したとおり、俺の右肩からは血が流れ出し、床に血だまりを作っていた。 恐らく先程の棒の刃に当たった所が裂けたのだろう。痺れて痛みは殆どなかったけれど、 視界がくらくらと歪み力が抜けていくのが分かった。この出血だ、無理もないだろう。 手で塞いでも血が溢れて続けて流れっぱなしのままだった。 青い顔をしたフィアが近くの薬箱から消毒液をで傷口を湿らせ、大量の軟膏を塗り何重にも包帯を巻き付けるが、 血の流れは一向に止まらなかった。 「…止まらないわ…。このままじゃ命も…」 「…そうなったって俺はいい…。フィアは助かったんだし… 俺の血を病院で使えばちゃんとした薬も作れるはずさ。俺は何とでもなる…」 「縁起でもないことを言わないでよ、死ぬなんて絶対に考えちゃ…」 「いいんだ…死んでも泣いてくれる家族はもういないし独りぼっちだもの…」 「絶対嫌!」 たまりかねたフィアが叫んだ。 血を吸った包帯の上に必死で包帯を巻き付けるが、結果は同じだった。 「ムルト…「きっといつかはイイコトの一つはあるさ」って言っていたじゃない。 辛いことだらけで終わったらどうするのよその時は…」 もう彼女の表情は殆ど見えなかったが、ハンカチを宛う手がで僅かに震えていた。 「そのときは、生まれ変わったときに幸せになるさ。きみの子供になれたら嬉しいよ…」 「ムルト、あなた本気で来世があると思っているの?」 「思ってないよ。だけど、そう言えば、その子は幸せになれるもの。 もう俺には幸せは必要ないから、責めて他の子達に…」 「バカっ!」 もう力が入らなくなった俺の声に、フィアの鋭い声が響く。 悲しい表情も詰まらせた言葉をむき出しにして、フィアが俺につっかかった。 「バカだって思っていたけれど本当に…バカッ! 人やわたしなんかのことより、自分の幸せを考えなさい…。 お腹を空かせて最後までボロボロのままのアナタのこと思うと胸が胸が…辛く…」 そこまで言うともう何も言えなくなったのか声をあげて本当にで泣き出した。 なま暖かい涙が俺の耳先へと滴り落ちきている。 「もう…!! 願い事があるなら言って、お願い。わたしに出来ることがあれば何でもするから、ムルト!」 「出来ることなら……ゴホッゴホッ」 言いかけたところで息が詰まり咳き込んだ。 治まった所で息を少し吸い込むと、静かに呟いた。俺が心の底で貯め込んでいた言葉だった。 「本当はお腹一杯ゴハンを食べて、フィアのような愛する奥さんが欲しかったよ…。 でも現実は凄く…寂しくて悲しくて苦しくてたまらない…。だから…ひとりぼっちのまま…思い切り泣きたい…」 「ムルト!! 辛い思い出だけ抱えたまま死んじゃだめ!! 治ったらいくらでもアナタを喜ばせてあげるし寂しい思いもさせない、ムルトが欲しがっていたお嫁さんになったっていい!! だからお願い…! 絶対にまだ死んじゃ…だめえええ!!!!」 フィアの叫び声が耳に響く。でも俺にはそれに答える力は最早残されていなかった。 俺の意識はそこで途切れ身体はその場で崩れ落ちたのだった。 6 たどり着いた幸せ それから後のことは覚えていない。 今度こそもうダメだ…意識が途切れる最後の瞬間にチラリとその思いが頭によぎった。 でもフィアが決してそんなことさせなかった。 フィアは即座にドクターカーを呼ぶと、身体が冷たくなりかけた俺に持てるだけの知識と手当を 俺に施してこの世に引き留め、その後ずっと体を抱きしめていたらしい。 そういえば、朦朧とした意識の中で、フィアの熱い涙と抱きしめる腕の温もりが記憶に残っていったっけ。 それからどのくらい時間が過ぎ去ったのだろう。気が着いたら、俺は再びベットで寝かされていた。 「ムルト君…気が着いたかい?」 ぼんやりとした視界がハッキリしたとき、マスターが俺の顔を覗き込んでいるのが分かった。 直ぐ後ろにはリディがホッとした顔を覗かせている。 「ここは…?」 「フィアの住んでいるマンションだよ。ムルト君は来るのは初めてだったかな。 あ、何があったかはもうフィアから聞いているよ…。大変だったな」 マスターの言葉に回りを見回してみると、これまた見たこと無い部屋だった。 ただ、閉じこめられていた小部屋とは違い、寝かされていた部屋は綺麗に掃除され壁も床も汚れ一つついていなかった。 ベッドの傍らに小さな木の本棚が置かれ、その脇には高級そうなサイドボードが添え付けられていた。 窓の外を見ると、タコノキが点在して生える緑地帯が広がっており、その直ぐ向こうには 新しく立てられたばかりのビル群が立ち並んでいるのが見えた。 どうやら街の中心部に程近いところに建てられてた高級共同住宅らしい。 「俺…助かったんだ…。今度こそ、死んだかと思ったよ…」 「危なかったのは確かだね。ムルト君が意識を失った後、 フィアが通報してドクターカーで病院に運ばれたけれど一時は呼吸が止まっていたらしいもの。 一命を取り留めたときはボクたちも泣いていたよ…もう。 本当だったら病院に入院させる所だったのだけれど、フィアがどうしても自分の側に居させて欲しい…って。 だから医者に無理を言ってフィアの家で療養させてもらうことにしたよ。もう一週間は寝ていたんじゃないかな」 「そんなに寝ていたんだ…。あ、そのフィアは今どこに…、いや、大丈夫なのですか…?」 「今回の事件のことを警察に事情を話しに行ってるね。もうすぐ帰って来ると思うけれど。 それにしてもフィアったら自分の気持ちに気が付かないまま、君のこと騙していたんだから…。 凄い後悔していたみたいだったよ…ホント」 「病気は薬を作って貰ったからもう大丈夫だ。薬を作れたからね。 フィアの治療用に病院で君の血液を少し頂いたけれどそれは構わないだろう?」 「ええ、別にそれは構わな‥。 あれ、…ってことはマスター達はフィアが麻薬病だったことももう知っているのですか?」 「フィアが話す前から知っていたよ。裏でごろつき連中が居たのとムルト君を狙っていたのは知らなかったけどね。 ムルト君がそいつらコテンパンにやっつけてくれたんだってね、少し胸がすっとしたよ。 連中なら治療薬を投与した後、全員捕まったよ。うちの顧客には警察だけじゃなく政府機関の連中も多いから、 二度とムルト君や私たちの前で現れないようちゃんとそれ相応の対策を頼んでおいた」 ソレ相応の対策は何なのかは聞かなかった。おそらく俺の知るべきことではないだろう。 「すみません、俺やフィアののためにそこまでして頂いて」 「気にすることないって。あの発狂した連中を放っておけばうちの顧客やその身内にも 直接なり間接的に被害が出ていたろうからね。今のうちに捕まえてよかったもの」 後ろでマンゴーの皮を剥いていたリディが口を挟む。 皮を剥いたマンゴーを果物ナイフで切り分けると、「はい」…とお皿に載せて差し出してくれた。 喜んでマンゴーを受け取り口へと放り込むと、さわやかな甘さが口の中に広がっていった。 「美味しい…。ジュースも良いけれど生のマンゴーもオイシイや。 それにしても、二人ともずっと看病してくれていたのかい…俺のために?」 「あはは、ボクもマスターもさっきやってきた所だよ。実際はフィアがずっと看病を続けていたんだ。 フィアったらなんだかんだで君のことかなり気に掛けていたらしいな。お、噂をすればフィアがやってきたね」 玄関の扉を開く音に、リディが尖った耳をピクリと立てる。 すぐさま廊下を走る足音がしたかと思うと、部屋へとフィアが飛び込んできた。 「ムルト!!」 「うわわっ!!」 (バフッ!!) 駆け寄り、そのままの勢いで飛びつくように抱きついてた。 勢い余ってそのまま仰向けに押し倒された。マンゴーの残ったお皿が派手にひっくり返す所だったが、 フィアはそれに構わず俺に両手でしっかり抱きついたまま俺の身体を離さなかった。 「よかった…ムルト、気がついたのね…」 「フィ、フィア…、ちょ、ちょっと…」 温もりまで伝わってくる嬉しいけれど。 薄い布一枚隔てフィアのフワモコで柔らかい胸が俺の顔に押しつけられてくる、二人が見てるぞ。 「マスター、本当に申し訳ありませんでした。私がこのことを黙ってさえなければ…」 「わたしは大丈夫さ。それよりムルト君にうんと謝っておきなさい。 傷を付けたのはフィアだけど、その傷を癒すのもフィアしかいないだろうからね」 マスターは笑いながらそう答えると、ゆっくりと立ち上がった。 「さてと、そろそろ邪魔者は退場せねばな。あとのことは二人に任せるつもりだよ」 「えっ、邪魔者だなんてとんでもないっ。別に急いで退場することも…」 「いいんだ。安心したし、実は仕事が入っていて、店に行かなくちゃならないんだ」 そう言うと、マスターは牙が見える位の大きくアクビをして立ち上がった。 俺たちの顔を見てにこりと笑うと、静かに部屋を出て行った。 「それじゃあボクもこれで、元気になったらまた店においでねぇ♪」 リディも立ち上がり、マスターの後を追い、部屋を出ようとするが、急に俺に顔を近づける。 心なしか蒼い瞳がキラキラと輝いて見える。 「それにしてもムルト君さすがだねぇ。なんだかボクもダーリンの次に好きになりそう♪」 「えっ!?」 「も、もうっ。リディったら…冗談はやめてよね…」 リディの言葉にフィアが困ったような笑顔を見せる。 いや、顔は笑っているけれど俺を抱きしめる腕に爪が食い込んで痛いぞ、フィア。 「あはは、フィアのモノとろうなんて思わないから安心して。冗談だからっ…半分は」 「え?ちょっとリディ、それじゃあ半分はやっぱり本気…?」 「あはは、じゃあねぇ♪」 狐につつまれた顔の俺達をよそに、 リディは俺たちに向かって手を振ると、尻尾を揺らしながら部屋を去っていった。 マスターとリディが帰りフィアとの二人きりなると、俺は再びベットに横になった。 怪我の痛みは殆どなかったものの、今だに貧血が残っているためか起きているだけで 全身や耳の先が妙に肌寒く感じたからだ。 冷たくなっている俺の長い耳を包み込むように撫でながら、フィアが静かに呟いた。 「マスター達にも後で謝らなくっちゃ。店が忙しいって言っていたけれど本当は余り寝てない筈なのよね…。 結構頻繁に家を訪れて、医者の手配や、顧客の警察や政府のお役人と色々お話していたみたいだったから…」 そうだったんだ…。そういえば、毛に覆われてよく見えなかったけれど、 マスターの目は少し充血していたっけ。俺が寝ている間に色々骨を折ってくれたのだろう…。 「もう、マスターに迷惑をかけるなよ…」 俺はそう言うと、毛布を少しかぶった。横になって毛布をかけていても、 身体にはまだ寒気が残っている。と、その時、枕元で俺の姿を見つめていたフィアが、 するりと俺の毛布の中へと潜り込み、薄いワンピースの布とふわふわの白い毛皮を押しつけてきた。 「わわっ!! な、何をす………フィア……?」 あまりの急な出来事にもう頭は混乱寸前。 慌ててくっついた身体を離そうと身をよじりかけたその時、目にフィアの藍色の目と表情が映り、俺はハッとなった。 「いきなりこんなことしてごめんなさい…。でもこうしないと私も胸が締め付けられそうでたまらないの…。 ムルトの身体…いつもは凄く暖かかったのにこんなに冷え切って…。…私がその熱を奪っちゃったのね…」 フィアは泣いていた。涙は藍色の瞳から頬を伝って流れ落ち、雫となってこぼれ落ちている。 涙の雫は俺の腕へと次々と当たって跳ね返り、止まる気配は全くなかった。 「これまで他の人の気持ちを考える余裕はなかった。病気にかかってからはなおさらね…。 でも、倒れていたムルトに出会ってからは違ってきた。何故か一緒に居ると楽しかったし、 独りぼっちでいつもお腹を空かせているムルト君の気持ちが流れ込んできてた…。 それなのに…私はアナタ事を騙して、アナタを悲しみと辛い気持ちで覆ったまま死なせようとしてた…」 「大丈夫だよ、フィア。俺のこと逆に助けてくれたじゃないか…。悪いのはフィアを悲しませた連中、フィアは悪くないよ」 「本当に疑うことを知らないんだから…。でもそんなムルト君でずっと居て欲しい…私」 フィアはそう言うと涙を拭いにこりと微笑んだ。これまで見たことがないくらいの笑顔だ。 天使や女神が微笑んだらきっとこんな顔をしているんだろうな…。 「あれ…?」 照れくさくなって視線をフィアの顔から上へとそらすと、 サイドボードの上に置いてある見覚えのあるウサギの置物が目に入った。 ボードの一番目立つ所に置いてあり、大事そうに綺麗に磨かれている 「フィア…、もしかして…これって俺の鞄に入っていたウサギの置物じゃあ…」 「ええ…、アナタが眠っている時に見つけちゃった。 男の獣達から色々プレゼントを贈られたことはあったけれど、受け取ったのはあなたのが最初で最後になるわね…。 それと…プレゼントのお返しももう決めたわ…」 「えっ…お返しって何を…?」 「意識を失う前の言葉覚えているわよね…。 本当はお腹一杯ゴハンを食べて、フィアのような愛する奥さんが欲しかった…って。その願い…私がかなえるわ」 「えっ…? あっ! ふぃ、フィアそれって…っっっ!」 (チュ…) 俺の言葉は最後まで続かなかった。 フィアがそのまま口を押しつけられ、舌の柔らかい感触が俺の口に伝わってきた。 「もう同情の気持ちのあるなしだなんて関係ない…独りぼっちにも、身体も心もお腹をすかせるようなことも、 そして誰かに渡したりなんか絶対にさせないわ…。だから…ずっとよろしくお願いします… 大好きなムルト君…ううんアナタッ…」 フィアの言葉にもう俺の胸が詰まり、目には涙が溢れてきた。 …もう俺は独りぼっちでなくなったんだ。気の利いた言葉を言いたかったが、嬉しさと切なさで思い浮かばない…。 一言…今の気持ちを言うのが精一杯だった。 「…フィア。大好き!」 涙が溢れているのを気が付かれまいと、俺はフィアを更に固く抱きしめた。 もうお腹も心も…幸せで一杯だ…。 エピローグ 満たされた幸せ 長い耳を揺らし 悲しみを背に 岬超える雲を追い 海沿いの道を 歩いていこう♪ 街を見つけたら きっと白く輝く 素敵な愛を 見つけられる〜〜♪ 相変わらず賑やかなシーランドで、今日も綺麗な歌声が店内に響き渡っていた。 歌っているのは勿論フィア、魅了する歌声は、この店で出会って以来今も全く変わらない。 だけどこの歌、なんだかどこかで聞いたことがあるような気がするけれど、何故だろう…。 結局、俺はその街から旅に出ることをせず、フィアと、この街に残って暮らすことになった。 お腹も愛も満たされて、もう放浪しようと思わなくなっていたからだ。 フィアに「万が一何かあって、大事な私と子供を未亡人にさせるつもり?」と言われて、 俺もプラントハンターからシーランドの転職を余儀なくされたのだが。 最後の曲が終わり、握手を終えたところでフィアは戻ってきた。 「ふふ、アナタが一緒だと、やっぱりよい気分で歌えるわね…♪」 「良かった…。でも本当に俺と一緒になって良かったのかい? 本当だったら今でも全国規模の放送局で歌を歌っていた筈なのになぁ」 フィアも俺と結ばれた後、店だけでなく夢であった全国規模の放送局でも歌うようになった。 但しデビュー後に一旦活動を中断し、その後再び復帰したが、半年前に再び放送局での歌手を引退することになった。 「いいのよ、テレビやラジオの裏の嫌な所を知る前に楽しめたんだから私は本望よ。それにね…」 フィアが明るい声で答えると、ギュッと腕を押しつけた。 「どんなに世界中からちやほやされたって、誰よりも一番好きな人と一緒じゃなければ私も幸せだなんて思わないもの。 ムルトだけじゃなくて私も一緒がいいの…アナタとね♪」 笑顔だけでなく尻尾もパタパタと揺れている。結婚するまでそんな姿見たことなかったな。 「いよっ フィアを引退に追い込んだ幸せ者の色男!」 不意に背後からリディも声をかけてきた。 彼女も結婚して一児の母になったとはいえ、明るい性格は相変わらずだ。 「おいおい、それじゃあ俺はまるで悪者だぞっ。 確かに幸せなのとフィアに引退に追い込んだのは認めるけれどさ…」 俺は苦笑すると、フィア丸みを帯びつつあるお腹をさすった。 フィアが放送局での歌手を引退した最大の原因…。それは俺の膝の上にいる2才になる娘のエリィと、 お腹に身ごもった二人目の赤ん坊をおかげだった。 二人目が生まれた後でもフィアの美貌と歌声なら多分また復活するだろうけれど…。 「フィアのファンからみたら実際悪者だと思うぞお♪ でもムルト君って優しいし格好良いモノねぇ…。 それに面白いし♪ フィア、半分でもいいからボクにもムルト君を貰っていい?」 「えっ!! 絶対ダメダメッ!! もう絶対にムルトのこと誰にも渡したりしないんだから!!」 (ぎゅううううっ!!!) リディの冗談に、フィアは本気で離すまいと、腕は勿論の足まで俺の腰に絡めて思い切り抱きしめてきた。 俺の顔がフィアの胸の谷間から谷底へと挟み込まれ、嬉しいけれど…息がちょっと…苦しいぞフィア。 背後でいつの間にかやってきたマスターがクックック‥と楽しげに笑っているのが見える。 「もう幸せ者ですねぇムルト君は。腹ぺこで寂しがりだったムルト君…って思っていたときが懐かしいですよ」 「マスターまで‥。懐かしがられてもそんな状態に戻るのは嫌ですよ、俺は」 「わかってるわよ。それにしても、もうお腹は一杯かな?」 「ああ…もうお腹も心も、一杯だよ」 笑いながらそう言うと、俺はテーブルに置かれていたニンジンパイにぱくついた。 これからもよろしく…フィア。 「ままぁ…、わたしもパパとずーーっと一緒に居ても良い?」 「だぁめ、今はママ専用だから…。もう少し大きくなってからゆっくり考えてね」 「エリィちゃんいいなぁ♪ ねぇねぇフィア、減るもんじゃないしやっぱりボクもムルト君を半分くらい貰っても…」 「わたし専用なんだから絶対ダメっ!!!!」 (おしまい)