いろいろコラム 絵について思うところをつらつらと書いたものです。 【もくじ】 第1段:よい絵とは 第2段:まずい絵とは 第3段:絵や漫画を描くのに勉強すべき教科 第4段:白黒の絵と色つきの絵 第5段:絵の癌化 第6段:みずから限界を作ってはいけない 第7段:粗探しをする暇があったら、良いところ探しをしましょう よい絵とは 結論:技術とは人から教わるものでなく、自分で作るものです。 「うまいな〜」と思わせる絵は2パターンあります。 それは「技術的にうまい絵」と「エネルギーが詰まっている絵」です。 技術的にうまいほうは、どれだけ高度なワザを使っているか、などです。 たとえば写真のように精密極まる絵画など、憧れますよね。 エネルギーのほうは、「どれだけ工夫し、どれだけ努力し、どれだけ研究して描いた絵か」です。 そういう絵を見ると、まるで、来たる春に向けて、エネルギーを凝縮させている 冬の裸木のような、静かなる迫力があるのです。 たとえばふたつの絵があって、それらは一見、おなじくらいの技量に見えても、 それが冬の裸木なのか、それともただの枯木なのか、誰が見ても一目瞭然なのです。 ですから、長い目で見れば、表面的で目先の技術ばかりを追うよりも、 「自分がどう好きなように描けるか」とか、「自分が好きなものを描くにはどうしたらよいか」など、 自分の考えや、自分で思いついたワザなどを絵具に塗りこんでいったほうが、 ずっとよい絵になるのです。 そう、「技術は人から習うようなものではない」とも言えます。 「技術は自分で考えるものだ。開発するものだ」というのが正しいのです。 まずい絵とは 結論:キャラクターを描くときは、かならずがんばって全身を描きましょう。 まずい……というか、そういう絵は、「何の頑張りもなく、手を抜いた絵」です。 そういった絵は、ひと目見れば、分かるものです。 一番やってはいけないのが、「バストアップ構図」と「顔だけ構図」です。 バストアップは、『モナリザ』の絵や、学生証などの証明写真を想像していただければと思います。 これらの構図は、超有能な画家がする以外は、ものすごく【素人っぽく】見えるのです。 それらの絵からは、「全身が描けないからごまかしました♪ てへ♪」という台詞が 今にも聞こえてきそうというか、そういった「ごまかし・妥協・不真面目」精神が、 絵具の中に混ざっているというか、見ていて(まじな話)吐き気がしてきます。 前項でも述べましたが、そういう「不誠実をごまかした(つもりでいる)絵」よりも へたくそでも「全身を描く努力」をした絵のほうが、100万倍も優れていると思います。 逆に言えば、一生懸命「全身を描く努力」をしない人は、 何年かかっても、よい絵など描くことはできないのです。 絵やマンガを描くのに必要な教科 結論:脇道にそれたトリビアは、多いに越したことはありません。 ずばり美術!! そして国語!! と言いたいところなのですが、 それらはさして重要ではありません。一番重要なのは、実は「社会」と「理科」です。 たとえば歴史を知らなければ、 平安時代の十二単を「アルファベット模様」で描いてしまうかもしれません。 地理を知らなければ極寒地に広葉樹林を描いてしまうかもしれません。 また経済を知らなければ、「不況なら紙幣をたくさん刷ればいいじゃないか」という ストーリー展開を書きかねません。 理科も重要です。基本的な科学知識がなければ、 空気のない星の風景なのに、空気遠近法をつい使ってしまうかもしれませんし、 景色が水面に映るときの法則に気づかず、反射を適当に描いてしまうかもしれません。 私は絵を描くときの「美術」、文を書くときの「国語」を【ストレート教科】と呼んでいます。 こういったストレート教科は、たしかにとても必要なのですが、そればかりに目が向いていると、 非常に「狭い」創作物を生みだしてしまうものなのです。 たとえば、国語ばかりを勉強していて、真に日本語の性質やすばらしさが分かるでしょうか? 中学生になり英語を勉強するようになって、別の角度から日本語を見ることができるように なったとき、なにか新しい発見はなかったでしょうか? ですから絵を描くにしろ、漫画でも、小説でも、トリビアはあればあるほどよいのです。 社会のこと、科学のこと、その他イロイロなことを知っていれば知っているほど、 思いがけない発想が生まれていくのです。 白黒の絵と色つきの絵 結論:絵をモノクロで処理するときは、超慎重に考えたほうがよいです。 時折、「色をつけるより、モノクロ(白黒)の絵のほうが得意だ」と 自信まんまんにいう人を見かけることがあります。が、正直それは、とてもあほらしいことです。 モノクロの絵が「うまく」見える――つまり迫力を持つのは、当たり前のことです。 なぜならモノクロでは荒が目立たないからです。 こんな話があります。 黒澤明監督のモノクロ映画『七人の侍』で、山賊が馬でもうもうと土煙をたてて 走り回っているシーンがあります。 それを見たアメリカの映画監督が、 「日本にはああいう格好いい土煙が出るロケ地があるにちがいない」と思い、 日本中を探し回ったのですが、結局そんな場所はありませんでした。 実はその『七人の侍』の土煙は、灰を大量に撒いたものだったからです。 つまり、カラー映画だったら一発でばれる「灰の土煙」が モノクロ映画では、荒が目立たないので、ごまかせてしまったのです。 絵でも同じことで、どんなに安っぽくていいかげんな色つけも、 モノクロにしてしまうと、「それなり」に見えてしまうのです。 もちろん、こんなことに甘んじていては、画力が上達するわけはありません。 だいたいにして、きちんと絵を描く人でしたら、モノクロ絵に迫力があることは 誰でも知っていることですので、調子のいいことを言ってモノクロばかり描いている人は 玄人にとっては「逃げている」としか、映らないのです。 もちろん、モノクロを描くから「逃げている」と短絡的に決めつけるのもいけません。 「ここの彩色はモノクロ以外ありえないな」という、モノクロの必然性を見極められる人や、 いろいろと色つけをしてみて、その上で、あえてモノクロを描く人もいます。 そういう人のモノクロと、逃げている人のモノクロは、 全然違うので、ひと目見ただけで分かります。 (※モノクロの必然性は、鳥山明の『ドラゴンボール完全版』の表紙絵がよい例です) それでは、我々はどうすればよいかというと、 「色がついているほうがモノクロにしたときよりもずっとキレイ」な絵を目指せばよいのです。 私もずっと目指していますが、なかなか難しいです……(TヮT;)> 絵の癌化 結論:真似はいいけど、まんまコピーはダメです。 最近、「萌え」というのが流行語となり、多くのイラストレーターが活躍していますが、 私は、なんだか絵に個性がなくなってきてはいないか? と思います。 商用イラストのひとつを見て、その絵の作者が全然分からないことがとても多いのです。 「イラスト:○○○○」というふうに名前が打ってあるので、やっと判別できるくらい。 みんな、まったく同じ手法や手順で描いているのか、すべて同じに見えます。 これは、あきらかにおかしい……異常なことです。むしろ病的といってもいいです。 本来、絵とか音楽といったものは、たとえその当時の流行があったとしても、 指紋や網膜のように、人それぞれまったく違うものになるはずなのです。 人により、考えつくワザや、描きたい事柄は同じではないからです。 商用イラストレーターは、おそらく学校などで「見られる」絵をはやく描けるようになるために、 みんな同じただひとつのスタイルを手っ取り早く、短期間(1〜2年)に教え込まれて いるのでしょう。目の描きかた、髪の描きかた、選色まで、なにもかも同じものを。 私はこういったイラスト群を「癌化イラスト」だと思います。 誰が描いたのか分からないほどに、みんな同じ。 流行とか、そういったレベルを超えて、みんなひとつのスタイルのコピー。 これは、精神文化の癌です。 さらに癌化イラストは、見ていて気持ちが悪くなるほど不透明でもあります。 ふつう、絵は、描いた人の「人間」がこもっているものなのです。 自分で一生懸命考えた手法のひとつひとつに、その人の情熱や、性格などが刻まれています。 絵は、見た目の「外観」と、その「内面」を同時に見るのがおもしろいのです。 しかし癌化イラストは、「自分で考えていない手法」を、「ただ連ねているだけ」なので、 一見うまく見えたとしても、「外観」だけで気持ち悪いのです。不透明で、描いた人の 人格がすこしも見えないのです。文章に置き換えれば、ただの文字の羅列にすぎないのです。 (ですから、商用イラストを見て違和感を覚えたことのある人は、絵心があります) どこからか文句を言われそうですが、よほど自我が強くないかぎり、 「イラストレーター養成学校」みたいなものは、行かないほうがいいです。 たしかに手っ取り早く、プロ並みの力はつくでしょう。 しかし、それで力をつけたとして、いったいなにになるのでしょうか。 教わったことのコピーのみをして、気持ち悪い癌化イラストを描いて、 絵を描くことが自分で楽しめるとは思えません。 私も、もっと若いころは、はやく「見られる」絵を描きたい。 誰かに教わりたい、そういう学校に行かなきゃダメなのかな、と思っていました。 しかし、絵などというものは、もともと人から教わるようなものではないのです。 あなたは呼吸の仕方を誰かから習いましたか? 心臓の動かし方は? まばたきの仕方を手取り足取り教えてもらいましたか? それらと同じです。 誤解しないでいただきたいのですが、私は「人真似をするな」とは申していません。 「すべてのオリジナルは模倣(真似)から始まる」という有名な格言があるくらいです。 私も、よく真似をしています。 尊敬する絵描きに弟子入りするのもいいでしょう。 仲間の絵描きと、技術を交換しあうのもいいでしょう。 しかし、ここで問題なのは、「真似」ではなく「コピー」です。 「真似」というのは、見たものを自分なりに消化することですが、 「コピー」はコピー機のように、思慮も、なにもなく模写することです。 (「模写」という練習はありますが、あくまでそれは練習にすぎません) 自分で試行錯誤しないで得たワザを駆使した絵など、癌以外のなにものでもありません。 お金を払い、楽をして技術を得ようという考えでは、ダメです。 みずから限界をつくってはいけない 結論:「苦手だ」の代わりに「描いたことがない」を使いましょう。 おそらくこれは、絵に限らず、すべてのことに言えることだと思います。 あなたは、自分の絵を、たとえば「セル画風」だとか「油彩風」だとかなんだと、 勝手に決めつけてはいないでしょうか。 また、「顔は描けるけど、手を描くのは苦手」とか、「機械が描けない」とか、 勝手に決めつけていませんか? こういう考えは絶対にやめましょう。 もし「自分は○○な画風だ」と決めつけてしまったら……。 もし「自分は○○は描けないんだ」と決めつけてしまったら……。 挑戦すらしないうちに、そこで終わってしまいます。 ……実はこういう考えは、視野が狭くなるはじまりなのです。 私は何回か、こういう傾向が顕著な人を見たことがあるのですが、 その人たちは、ものすごく視野が狭く、言うことなすことすべてが低レベルすぎて、 逆に可哀想に思えてきました。 極端な例ですが、「自分はセル画風の画風だ。だから他の手法は試しもしない」 というふうに、まったく不必要な場面で視野を狭めてしまうと、 それが引鉄となって、どんどんと「やりもしないうちにやめてしまう」という覇気のない 方向へと、落ちていってしまうのです。 こういった人にならないようにするためには、 「苦手だ」の台詞を、「描いたことがない」に変えることが重要です。 「機械が描けない」「手を描くのが苦手」……とどのつまり描いたことがないだけなのでは? 「自分は機械が描けない」と言ってしまえばそこで終わりですが、 「自分は機械をあまり描いたことがない」とすれば、前向きになれます。 むしろ、そういう人が描く機械の方が、全体的におもしろいデザインになるのです。 (かくいう私も、昔は「自分は機械はムリ。衣装デザインはムリ」などと勝手に思い込んでいました) また、自分の画風を自分で勝手に決めつけないこと。 画風というものは、自分ではなく、周りの人が決めるものです。 粗探しをする暇があったら、良いところ探しをしましょう 結論:優れた人=良いところ探し名人 以前、私がイラストレーターの学校に勧誘されたとき、 その勧誘員のお姉さんが、「ウチで勉強すれば、プロのイラストの粗探しができるよ♪」 というようなことを言ってきたことがありました。 女の子好きの私ですが、さすがにこれにはガッカリしましたし、 この学校はその程度なのか、という思いもしました。 ぶっちゃけた話、粗探しなんて、誰でもできることなのです。 「ここの線がはみでてる」とか「ここの色がおかしい」とか、そういったことは、 たとえその人が、どんなシロウトでも、どんな厨房でもできるのです。 逆に、その絵の良いところを探すということは、誰にでもそうできることではありません。 なぜかというと、非常に難しいからです。 人間でたとえてみましょう。 ちょっとあなたのクラスメイトでも同僚でも、知り合いをひとり思い浮かべてください。 そして、その人の「悪いところ、嫌なところ」を挙げていってください。 すぐにいくつか見つかると思います。 「態度がむかつく」とか「ちっとも片づけない」とか。 それでは今度は逆に、その人の「良いところ」を挙げてみましょう。 ……というふうに聞かれると、悪いところほど簡単に出てこないでしょう。 これとまったく同じことで、 絵の粗というものは、どんなバカにでも探し出せるものなのですが、 良いところというのは、よっぽど注意して見ないと、絶対に分からないものなのです。 どんなことでもそうなのですが、優れた能力を持つ人というのは、 常に他人の良いところ、優れたところを探し、自分のプラスにしているの人のことなのです。 粗探しなんてしている暇はありません。 逆を言えば、粗探しをしていい気になっているような人は、 その姿勢を改めない限り、一生、人並み以上の力が身につくことはないのです。