チロル放浪記 作:菜月進さま 海の上を漂う船の中でボクはひとり、身を小さくしてその場に座り込んでいた。 サンタローズの街からなるべく離れるために、出航前の船にこっそり乗り込んだのだ。行き先は知らない。 もっとも、既に帰る場所を失ったボクにとって、それは些細なことでしかない。 心配なのは、人間に見つかりはしないだろうかということだ。モンスターであるボクは、 見つかればたちまち殺されてしまうだろうから。 倉庫の隅で震えるボクは、そういった不安を形見の剣を抱きしめることで紛らわしていた。 気休めにすぎない行為だが、懐かしさを感じさせるにおいに微かな安息を覚える。 「ご主人さま……」 あの時のように抱きしめて欲しい。そう願っても、この場にご主人さまはいない。 ここにあるのはパパスさまの使っていた剣と、ご主人さまがくれた鉄の爪だけだ。 「会いたい、よぅ……」 記憶にあるご主人さまの姿だけが、今のボクには支えだった。 疲労から来る甘い眠りが、そんな幼い頃のことを思い起こさせる。 ◆◆◆ ボクは普通のキラーパンサーとは違っていた。 両親の記憶はないし、野山で暮らした覚えもない。気付いたときには街の猫たちに混じって残飯を漁り、命を繋いでいた。 そのころのボクに自分はキラーパンサーであるという自覚はなく、それ以前にモンスターだということすら理解していなかった。どういう経緯で人里で暮らすようになったのかも、記憶がないので分からない。 幼いボクの力は普通の猫にも劣るほどで、エサを得られない日も度々あった。 空腹と寂しさ、それがボクの持っている最初の記憶だ。 二つめの記憶は、エサにつられたボクを二人の人間のこどもが捕まえて、オモチャのように痛めつけられていた日々。 物心ついたのは、このころのような気がする。 いつものようにオモチャにされるボクの前に、別の二人の人間のこどもが現れた。 初めはいじめる二人の仲間かと思ったが、どうやら様子が違う。話の内容は分からなかったが、 かばうようなそぶりを見せる二人はどうやら、ボクをいじめることを止めるように忠告しているようだった。 その数日後、いつものようにこどものオモチャにされていたボクの前に、再びあの二人が現れた。 いじめる二人と何かを話した後、そのうちの一人、青紫色のターバンを巻いた少年が、ボクに向かって手をさしのべた。 ――叩かれる! そう思って身構えたボクの体が、ふっと軽くなる。気付くとボクは、その少年に優しく抱きかかえられていた。 その手は温かく、不思議な力を持っていた。触れた瞬間、まるで意識が伝わってくるように人の言葉が 理解できるようになったのだ。 少年に連れ立っていた金髪の少女が、抱かれるボクの頭をなでながら言う。 名前がないのはかわいそうだから、ボクに名前を付けてあげようと。 「ねえ、チロルって名前はどうかしら?」 ボクを抱いている少年はこくんとうなずくと、少女の顔が明るくなる。 「決まりね!」 少女はうれしそうにボクの頭をなでながら言った。 「ネコさん、今日からあなたの名前はチロルよ!」 そうして名無しだったボクに、少女は名前をつけてくれた。今思えば、それをうれしいと感じることもできたと思う。 だが、まだ愛情というものを知らなかったボクには、その温かさが理解できなかった。 その後、ボクは開放されてターバンを巻いた少年と行動を共にするようになった 。チロルと名付けてくれた少女とは別れ別れになってしまったが、彼女がボクの頭に太陽のにおいがするリボンを 付けてくれたので、いつでも彼女を思い出すことができた。 その後、少年の暮らす街へやってきたボクは、初めて人間の家というものの中に入った。 そこは暖かく、何故か懐かしいにおいのする場所だったことを覚えている。 屋根のあるところで眠り、人間と同じ食事を食べ、少年に語りかけられる日常。 彼と一緒にいると、みるみる人間に近づいていくような気がした。まるで、こうして過ごすことが当たり前のように。 おおよそモンスターらしくないことだが、野生のモンスターとして過ごした記憶を持たないボクだから 馴染むことができたのかも知れない。 ある日、少年とボクはベラという不思議な女性に導かれるまま、雪原の広がる世界へとやってきた。 そこには神殿らしき建物があり、その上にはポワンというなの綺麗な女の人が座っていた。 ポワンさんは少年をかわいい戦士さまと呼び、冬が終わらないこの国に春を呼び戻す手助けをして欲しいと頼んだ。 少年はうなずき、ボクらをここまで連れてきたベラさんと共に春を取り戻す旅が始まった。 自分がキラーパンサーであるという事実は、その神殿がある村で初めて知った。 スライムを連れたおじさんが、ボクがキラーパンサーであると教えてくれたのだ。 冒険の最中、ボクは戦いに参加こそしたが、猫と同等の力しか持たない自分が魔物との戦いで役に立てるはずもなく、 少年に守ってもらってばかりだった。 守ってもらうたびに、ボクの中で不思議な感情が芽生えるのを感じた。それが少年への好意だと気付くのに、 そう時間はかからなかった。 ――でも、守ってもらってばっかりじゃだめだ。 好きな少年に迷惑はかけたくない。その一心で、必死になって強くなろうと努めた。 すると戦いを重ねるごとに、ボクは実感できるほど確実に強くなっていった。キラーパンサーの血が、 ボクに強さをくれたのかも知れない。 戦いになれてきたボクは、少しずつ戦闘で活躍する機会が増えていった。 役立つたびに、少年がとても褒めてくれたことを覚えている。 そうして少年とふれあっていたボクは、うれしいという感情を抱くことができるようになっていた。 同時にこの思いを伝えたい、少年にお返しがしたいという願いも抱くようになった。 願いを実現するために、ボクは少年が見ていないところで不慣れな言葉の発音を必死になって練習した。 ボクの気持ちが分かるらしいベラさんに手伝ってもらい、少しずつ人間の発音を覚えていく。 洞窟の探検を終えたときだった。疲労でぐったりしていたボクを気遣い、少年が抱いて歩いてくれた。 それがうれしくて、ボクは少年に話しかける。 「あ……ありが、とう」 初めて喋った人間の言葉。少年――いや、ご主人さまにお礼が言いたくて、必死になって練習した言葉だった。 それを聞いたご主人さまが喜んでくれたことは今でも鮮明に覚えている。ボクはのどがかれるまで、何度もありがとうを言った。そのたびに、やさしく撫でてくれるご主人さま。幸せとは、こういうことを言うのだなと知った瞬間だった。 その後、ご主人さまが合間を見ては人間の言葉を教えてくれるようになった。 雪国に春が訪れる頃には、つたないながらも人の言葉を喋れるようになった。 「ごしゅじんさま、ごしゅじんさま!」 ご主人さまはこう呼ばれると、照れたような笑みを浮かべる。 ご主人さまという言葉が主従関係を示すということは当時のボクでも知っていたが、 それが一番しっくりくる呼び方だと思ったから、そう呼んだ。 ――だって、ご主人さまはボクを養い、言葉を教え、抱きしめてくれる人だもの。 妖精の国から戻ったボクとご主人さまは、すぐにサンチョさんに呼ばれ、 パパスさまと共に西にあるラインハットと呼ばれる国へ旅立つことになった。そこは川を挟んで向こう側にある、 水をたたえた美しい国だった。とても大きな石造りの城が建っていて、圧倒されたことを覚えている。 「ごしゅじんさま、すごいね!」 ボクが話しかけるとご主人さまは語らず、いつもの笑顔で応えてくれた。 ボクらはそのままお城の中へと入り、王様と面会した。そのころのボクでも、魔物である自分が王様の前に 連れて行ってもらえることがどれだけ大きなことか自覚できた。きっとパパスさまは凄い人なのだろうなと、感心する。 「そんなところに立っていても退屈だろう。いい機会だから、城の中を見学させてもらいなさい」 ラインハットの王様と話しているパパスさまと一旦別れて、ボクとご主人さまはあちこちを歩いて回った。 そうして、ひとりの偉そうな少年に出会う。 「オレはこの国の王子、王様の次に偉いんだ。どうだ、オレの子分にしてやろうか?」 ご主人さまが素直にうなずくと、その少年は、あろう事かご主人さまをあざ笑った。 「わははははっ! 誰がお前みたいな弱そうなヤツを子分にするか、帰れ帰れ!」 「ご、ごしゅじんさまをバカにするな!」 飛びかかろうとするボクを、ご主人さまは制止した。ボクを抱き上げて、何も言わずに部屋を出る。 「うっ、うっ、ごしゅじんさま……」 悔しかった。あんな魔物と闘ったこともなさそうなヤツにご主人さまをこけにされて、 黙ってその場を去らねばならないのだから。ボクはもう、二度とあいつの顔を見たくないと思った。だが…… 「ヘンリーの友達になってやってくれ。あんな性格だが、元から悪い子ではないのじゃ。たのむぞよ」 あろうことか、ラインハットの王様はご主人さまに、王子の友達になってくれと頼んでしまった。 人の良いご主人さまはそれを快諾し、ボクらはパパスさまに見送られながら再びあの部屋へ行くことになった。 不機嫌そうにするボクに、ご主人さまは申し訳なさそうに謝った。ごめんね、嫌な思いをさせて、と。 「そんな、ごしゅじんさまは悪くないんですから気にしないでください。ボク、我慢するから」 そうして、王子と二度目の対面。王子は先ほどと態度を変え、子分にしてやるから隣の部屋へ行って 子分のしるしを取ってくるようご主人さまに言った。言われたとおり、隣の部屋へ移動するご主人さまとボク。 だが、隣の部屋に宝箱はあったが中身は空で、結局しるしを見つけられなかった。 仕方なく王子の待つ部屋へと戻ると、どうしたことだろう。ヘンリー王子がいなくなっていた。 「あ、あれ? ご主人さま、ヘンリー王子いないよ?」 ボクたちは廊下で待つパパスさまのところへ走った。 「ヘンリー王子がいなくなったって!? しかし王子はここを通らなかったぞ」 おかしいと思いつつ、ボクらはパパスさまと部屋へと戻った。すると…… 「あっ、パパス! 部屋に入るなと言ったはずだぞ!」 椅子に腰掛け、偉そうに指を指すヘンリー王子の姿があった。渋々部屋を出るパパスさまにボクらも続く。 「やれやれ、夢でも見たな。王子はちゃんといたではないか。とにかく、王子の友達になってやってくれ。頼んだぞ」 パパスさまに叱られ、しかたなく部屋へと戻るご主人さまとボク。腑に落ちないボクは、ご主人さまに愚痴をこぼす。 「きっとどこかにかくれてたんだよ」 ご主人さまもそう思ったらしく、ボクの言葉にこくんとうなずく。 部屋にはまだヘンリー王子がいたので、ご主人さまが宝箱が空っぽだったことを告げる。 「そんなはずはないぞ! 子分になりたければ、もう一度よく調べてみな!」 言われるがまま、もう一度宝箱の置かれた部屋に入る。だが、隅々まで探しても、しるしらしきものは何も出てこなかった。 そうして戻ると、再びヘンリー王子の姿が消えている。 あることに気付いたボクは、パパスさまを呼びに行こうとするご主人さまを制止した。 「まって、ごしゅじんさま。ここから風のにおいがするよ」 ヘンリー王子が座っていた椅子の下から、微かに外のにおいがしたのだ。 ご主人さまが椅子をどけて床を調べると、そこには階段が隠されていた。 「王子はきっとこの下だよ」 ご主人さまとボクが階段を下りると案の定、そこにはヘンリー王子の姿があった。 「なんだ、もう階段を見つけてしまったのか……ふん! つまらないヤツだな。 しかし子分のしるしは見つからなかっただろう。子分にはしてやれないな……ん?」 いきなり非常口が開いたかと思うと、武器を持った二人の男が入ってきて、ご主人さまとボクを突き飛ばした。 「痛っ! な、なにする……あ!」 ボクらが倒れている隙に、男たちはヘンリー王子を気絶させ、抱えて外へと出て行ってしまった。 急いで起きあがり追いかけると、王子は男たちに小舟に乗せられ、連れて行かれるのが見えた。 ご主人さまは必死に追いかけたが、小舟で水路づたいに逃げる男たちに追いつけるはずもなく、とうとう見失ってしまう。 「た、大変だごしゅじんさま。ヘンリー王子が!」 ご主人さまはうなずいて、ボクらは二人でパパスさまのところへ走った。 「なにっ、王子がさらわれただと!? な、なんとしたことだ……いいか、このことは誰にも言うな、 騒ぎが大きくなるだけだからな。とにかく王子を助け出さないと! 行くぞ、ついてこい!」 そう言ってパパスさまは走り出した。だが、パパスさまの足はとても速く、ボクらは街の中で置いてけぼりにされてしまった。 「ごしゅじんさま、どうしよう……」 ボクが心配そうに声をかけても、ご主人さまは無言だった。 あれだけイタズラされたというのに、ヘンリー王子のことを心配して、本気で怒っているようだ。 「追いかけるんだね、ごしゅじんさま、ボクも行く!」 だがご主人さまはすぐ追いかけることはせず、街の武器屋へ寄ってチェーンクロスと鉄の爪を買った。 きっと、戦いの予感を感じ取ったのだろう。そして、買ったばかりの鉄の爪をボクに手渡した。 緊急時に不謹慎だとは思ったが、うれしかった。今まで防具しか身につけてもらったことはなかったが、 こうして武器をボクに装備させるということは、戦力として期待されているということだ。 初めてご主人さまが、ボクを必要としてくれた! 「行こう、ごしゅじんさま!」 ボクが先頭に立ち、パパスさまのにおいを頼りに先へ進んだ。 しばらく歩くと洞窟の入り口らしきものを見つけた。入ってみるとそこは自然にできたものではなく、 明らかに人の手が加えられて作られた建築物だった。おそらく、王子をさらった人間たちのアジトだろう。 そこは魔物の巣窟になっており、ボクとご主人さまは襲い来るモンスターたちをなぎ倒しながら先へ進んだ。 「ご主人さま、危ない!」 魔物がご主人さまめがけて木槌を振り下ろす。ボクは体当たりしてそれを防いだ。 「ぎにゃっ!?」 木槌は顔面を直撃し、意識が飛びそうになる。だが、ご主人さまは別の魔物と対峙している。 ボクがやらなきゃ、ご主人さまは背後を突かれる! 微かに見える目を頼りに、ボクはモンスターを鉄の爪で引き裂いた。 「ど、どうだ!?」 会心の一撃。攻撃は急所をとらえ、モンスターの息の根を止めることができた。 だが、ボクの傷は思いの外深く、痛みと出血が止まる気配はない。そんなボクを見て、ご主人さまは攻撃の手をゆるめ、 回復呪文の詠唱を始めた。その隙を突こうと、二匹のモンスターがご主人さまへ一斉に襲いかかる。 「な、ごしゅじんさま!?」 刹那、ご主人さまに噛みつく魔物たち。血を流しながら、ご主人さまはボクに回復呪文をかける。 だいじょうぶかい? まるでそう問いかけるような、優しい笑みを浮かべて。 暖かい光はボクを包み、たちまちに傷が癒え始める。だが、そんなものを待ってはいられない。 ボクはまだはっきりしない目でなんとか魔物をとらえ、飛びついた。 「ごしゅじんさまにさわるなあああああ!」 ご主人さまに気を取られていたモンスターたちを、背後から素早く引き裂いた。 悲鳴を上げるモンスターの隙を突いて、ご主人さまの鞭が二匹を同時に剥ぎ払う。 戦闘が終わると、ご主人さまは壁にもたれてその場に座り込んだ。 傷口に薬草をあてがい、歯を食いしばって痛みに耐えている。どうやら、回復呪文はボクにかけたのが最後だったらしい。 「どうして、どうしてボクを回復させたりしたんですか! ボクにかまわなければ、傷つかずに倒せた相手じゃないですか!」 ボクは怒っていた。他人の、ましてやモンスターであるボクなんかのためにご主人さまが傷ついていいはずがない。 ご主人さまの行動は間違っている。 だというのに、ご主人さまはホッとした様子でため息をついて、ボクの頭をなでた。 「う、う……ごしゅじんさま、ごしゅじん、さま……」 喜びと悲しみが、ボクに涙を流させた。 ――なんて弱いんだろう。強くなろう、絶対に強くなるんだ! そう、ボクは心に誓った。 しばらく休んだボクらが奥に進むと、ようやくパパスさまに追いつくことができた。 ここまで来るとは思っていなかったらしく、パパスさまはとても驚いている。 「はぐれてしまったと思ったが、まさか追いついて来るとは……お前もずいぶんと成長したのだな、父さんはうれしいぞ」 パパスさまと合流したボクらは水路に放置されていた小舟を使い、奥を目指した。 こけの生えた長い水路を抜けるとそこは牢屋になっており、中にはヘンリー王子が倒れていた。 「ヘンリー王子、無事か!? く、カギがかかっている。ぬっ、ぬおおおおおおお!」 鍵のかかった鉄格子を、パパスさまが強引にこじ開ける。 ヘンリー王子に目立った怪我はなく、まだ強がりを言える元気は残っているようだった。 「ふん! ずいぶん助けに来るのが遅かったじゃないか。 まあいいや。オレはお城に戻るつもりはないからな。王位は弟が継げばいい。オレはいない方がいいんだ」 「王子!」 パパスさまは大声で怒鳴り、ヘンリー王子を叩いた。 「なっ、なぐったな、このオレを!」 憤る王子の肩をがっしりとつかみ、パパスさまは王子の目を真っ直ぐ見つめた。 「王子! あなたは父上のお気持ちを考えたことがあるのか!? あなたの父上は、父上は……」 震えるパパスさまを見て、ヘンリー王子は言葉を詰まらせる。 ボクには親子というものは分からないが、父親というのは、パパスさまのようにこどものことを心から思うものなのだろう。 「さ、追っ手が来ないうちに早くここを……」 パパスさまが急いで牢獄を飛び出すと、そこには三匹の魔物が待ちかまえていた。 剣を抜き、パパスさまがご主人さまたちを守るように前へ出る。 「くっ、早速現れたか。ここは父さんが抑える、お前は王子を連れて早く外へ!」 一瞬ためらったが、ご主人さまはヘンリー王子の手を引き小舟に飛び乗った。 ボクが続いて乗り込むのを見計らって、壁を蹴り小舟を走らせる。 水路を進む道中、ヘンリー王子は先ほどのパパスさまの言葉にショックを受けたらしく、放心状態になっていた。 「ごしゅじんさま、パパスさまは……あ」 声をかけようとしたボクは、ご主人さまの顔を見て言葉を紡げなくなった。その表情は、あまりにも強い決意に満ちている。 成人した人間の半分ほどしかない体格が、今はパパスさまに引けを取らないほど大きく見える。 自分が父親からゆだねられた使命を、なんとしても果たさんとする強い意志の表れなのだろう、 恐怖や不安というものは見えない。パパスさまを信じ、自分は自分にできることを精一杯やろうと思っているのだろう。 ボクはそんなご主人さまの後ろで、恐怖に足がすくんでいる自分を歯がゆく思った。 よりいっそう、ボクの中で強さへの渇望が強まる。 水路を利用したため、ボクたちは素早く出口へたどり着くことができた。 だが、そこには悠然と構える魔族の姿があった。全身を魔物の血で染めた紫色のローブで覆い、 青い肌は顔と腕の部分のみ露出している。 「ほっほっほ、ここから逃げ出そうとはいけないこどもたちですね、この私がお仕置きしてあげましょう」 その魔族は強かった。ご主人さまとボク、それにヘンリー王子が一斉に飛びかかったが、 力、スピード、呪文、すべてにおいてボクらの力を凌駕していた。驚いたことに、それでも魔族は本来の力の半分も 出していないようだった。笑みを浮かべながらこちらの様子を眺め、わざとボクらに攻撃させているようにも見える。 鉄の爪で引き裂いても、体どころかローブにすら傷が付かない。 勝てるはずもなく、ボクらは一撃のもとになぎ払われてしまった。意識が朦朧とする中、ボクは死の予感に恐怖していた。 「こ、これはいったい!?」 そんなとき、後ろからパパスさまが駆けつけてくれた。 魔族は手下を差し向けたが、パパスさまはそれをことごとく切り倒す。これで助かる、そう思った。 「ほっほっほっほ、見事な戦いぶりですね。でも、こうするとどうでしょう……」 だが、魔族は倒れるご主人さまの首元へ死神の鎌をあてがい、パパスさまを脅迫した。 ご主人さまの命が惜しければ刃向かうな、と…… 「おのれ、卑怯な……」 「私にとってそれは褒め言葉ですよ。さあ、どうするのです?」 「くっ……」 パパスさまは剣を投げ捨て、手下たちの刃を甘んじて受け止める。血を流し倒れるパパスさまは、ご主人さまに語りかける。 「気がついているか! お前の母さんはまだ生きているはず……わしに代わって母さんを……ぬわーー!!」 そんなパパスさまをあざ笑い、魔族は燃えさかる火炎でパパスさまを焼き払った。 「ほっほっほっほ、子を思う親の気持ちはいつ見てもいいものですね。 ジャミ! ゴンズ! このこどもたちを運び出しなさい」 ジャミと呼ばれた手下はご主人さまを抱えようと近づいたとき、ボクに気がついた。 「ゲマさま、このキラーパンサーの子は?」 「捨て置きなさい。野に帰れば、やがてその魔性を取り戻すはず」 そう言い残し、魔族たちはご主人さまを連れ去りどこかへ消えてしまった。 残されたボクはふらつきながらも立ち上がり、ご主人さまを探す。 「……ごしゅじんさま?」 ――においが、消えてる。 「ふぇ……」 今までずっと、ご主人さまはそばにいてくれた。 それはとても幸福なことだったのに、いつの間にか、ボクはそれを当たり前だと思うようになっていた。 だから……ご主人さまがいないことが、こんなにも悲しいなんて、思ってもみなかった。 「ご……ごしゅ……ひっく、どっ……どこ行っ……」 しばらくの間、ボクはその場で泣いていた。あまりに悲しくて、身動きが取れなかった。 「ひっく……ぐし」 ひとしきり泣いたボクは、ようやく冷静に物事を考えられる程度に落ち着いた。 涙をぬぐい、焼けただれたパパスさまの遺体の前に立つ。 「ごめんなさい、パパスさま。ボク、ごしゅじんさまを守れなかった。 だから、強くなって、もっと強くなって、ごしゅじんさまを助けるから!」 ボクはパパスさまが投げ捨てた剣を背負い、その場を後にした。 その後のボクの旅は、とても辛いものだった。心に埋まることのない穴が空いてしまったようなむなしさ。 驚くほど弱気になってしまった自分。ご主人さまが支えであり、一緒に過ごす時間こそがボクの幸せだったのだと、 失って初めて気がついた。 ――幸せじゃない人生に、意味なんてあるのかな? 生きること自体にも困難が伴った。人間の食べ物に慣れてしまったボクの体は 野生の動物や魔物の生肉を受け付けなくなっており、食べても戻してしまうのだ。 仕方なく、ボクは初めの頃と同じように、街の猫たちとともに残飯あさりをして飢えをしのいだ。 命を繋ぎながら、ボクはご主人さまの手がかりを探し、ラインハット中を歩き回った。 幸せを、心を取り戻したい一心で。だが、何年探しても得るものはなかった。 ――ここにはご主人さまはいない、帰ろう。 ボクは諦めて川を渡り、短いながらもご主人さまと暮らしたサンタローズの街へ戻ることにした。 だが、いざサンタローズへ着いてみると、入り口は自警団の人が守っていて入れない。 ボクが入り口でうろうろしていると、見覚えのある人が声をかけてくれた。 「チロルじゃないか! それに旦那さまの剣を持って……いったい何があったのです?」 「サンチョさん! 実は……」 「そんなことが……なんて恐ろしい。あんなに立派な方だったのに!」 サンチョさんがボクに気付いてくれたおかげで、ボクは懐かしいご主人さまの家へ帰ることができた。 空腹だったボクは、サンチョさんが用意してくれた食事をむさぼるように食べた。 サンチョさんの計らいで、ボクはサンタローズを自由に出入りできるようになった。 ボクはこの街を拠点として、方々を回りご主人さまの手がかりを探した。手がかりを得られない日が続いたが、 それでもボクは諦めたくなかった。ご主人さまが生きているかも知れないという望み、それがボクの生きる力なのだから。 そして数年後、ボクは同じようにご主人さまを探す生活を続けていた。 体は大きくなり、もう猫として街に忍び込むことはできなくなったが、代わりに新しい希望が出てきた。 新しく橋が架けられ、大陸の南部へ行くことができるようになったというのだ。 さっそく足を伸ばてみようと思い、ボクは念入りに準備をした。もちろん、パパスさまの剣も持っていく。 長い年月で、ご主人さまも変わってしまっているだろう。だがこの剣を持っていれば、 ボクを見かけたご主人さまが気付いてくれるかも知れない。そう思い、出かける時は必ず携帯しているのだ。 ボクは淡い期待を抱いてサンタローズを後にした。 途中、大勢の兵隊の列がやってきたので、ボクは物陰に潜んでやり過ごした。武装した兵士たちの表情は一様に暗い。 いったい何のために進んでいるのか気にはなったが、ボクは先へ進むことにした。 一週間ほどかけて大陸南部を歩き回った。歓楽街、大きな教会らしき建物、塔などを見つけたが、 相変わらず手がかりはつかめなかった。 ――また、見つからなかった。 「ご主人さま……ボク……あいたいです…………」 失意のまま、ボクは元来た道を引き返す。すると街に近づくにつれ、奇妙なにおいが漂ってくることに気がついた。 「……? 何のにおいかな」 何かを焼いたような、とても不快感をともなうにおい。嫌な予感がしたボクは足を速める。 「そん、な……」 奇妙なにおいの正体は、街が焼けるにおいだった。サンタローズが焼き払われていたのだ。 建物はほとんどがガレキと化し、人たちは死者を弔うための墓を掘っている。 「まさかあの兵隊たち……サ、サンチョさんは!?」 ボクはご主人さまの家へ走った。家は激しく破壊されており、もはや原形を留めてはいなかった。 中はガレキの山で、かろうじて壁が残っているような状態だった。 所々に血の痕を見つけたが、サンチョさんの遺体は見つからなかった。無事に逃げられたのだろうか。 「おや、チロルちゃんじゃないかい。無事だったんだね」 宿屋のおばさんだった。おばさんに限らず、ボクはサンタローズの人たちには良くしてもらっている。 「あ、おばさん! あの、サンチョさんは無事なんですか?」 「サンチョさんかい……分からないねぇ」 何か思うところがあるのか、おばさんの表情は複雑だ。 「何があったんですか?」 「ラインハットの兵隊がね、パパスさんがヘンリー王子をさらったと言って押し寄せてきたんだよ。 もちろん、私たちはそんなこと信じないさ。でも、パパスさんはこの通り帰ってこないだろう? 応対に出たサンチョさんも兵隊に殺されそうになったんだけど、あの人は武器を手にして兵隊と闘ったんだよ。 そして大勢の兵隊をひとりで引きつけて、街の外へ出て行ってしまったのさ。 あのサンチョさんがあんなに強いとは知らなかったけど、それでもあれだけの兵隊相手じゃあねえ……」 「そんなことが……」 胸が苦しくなった。村の人を心配させてはいけないというサンチョさんの計らいで、 ボクはサンチョさん以外にはパパスさまの死を秘密にしていた。だが、もしパパスさまの死を村人に知らせ、 その情報がラインハットまで届いていたら、こんなことにはならなかったのではないか? そんな疑問が頭をよぎる。 外は暗くなり、雨が降り出した。まるでボクを責めるように、叩きつけるような強い雨だった。 「おや、降ってきたね。ウチへおいで、宿屋は無事だから」 だが、ボクはおばさんの申し出を断った。 「……ボクは、この街を出ます。ボクみたいなモンスターがいたら、また疑いをかけられてしまうかも知れませんから」 ボクは街の外へと歩み出す。この雨が、少しでもボクの心の闇を洗い流してくれることを願いながら。 街から離れるため、そして新たな手がかりを探すため、ボクはサンタローズの南にある港へ向かった。 以前ご主人さまが話してくれた、別の大陸へ渡るために。 ◇◇◇ どれだけ眠ったか、ボクは甲板から聞こえる声や足音で目を覚ました。どこかの港に着いたらしい。 ボクがタルの影から様子を伺っていると、食料庫の扉が開いた。食料を運び出すのだろう。どうしようかと迷っていると…… 「う、うわあ、モンスターだ! モンスターがいるぞ!」 ボクは船員に見つかってしまった。このままでは捕まってしまう、ボクは叫び声を上げる船員の脇をすり抜け、 素早く甲板に出た。 「キ、キラーパンサー!?」 運の悪いことに、甲板にはまだ多くの船員が残っていた。 港へ通じる橋の先には自警団らしき見張りも立っていて、とても突破できそうにない。 荷物を捨てて海に飛び込めば、逃げられるかも知れない。 だが、ボクにはご主人さまがくれた荷物を捨てるなんてとてもできなかった。 そうして迷っているうちに、武器を持った人間たちがボクを取り囲む。 「ま、待ってください!」 ボクはとっさに叫んだ。 「ま、魔物が喋った!?」 人間たちがざわめく。それを好機と思ったボクは大きく跳躍し、船員や自警団員たちの頭上を飛び越した。だが…… 「あっ!?」 その拍子に、パパスさまの剣を落としてしまった。一瞬の躊躇が隙を生んでしまい、再びボクは囲まれる。 周囲を取り巻く敵意の渦に、ボクは最悪の事態を考えた。そしてご主人さまからもらった鉄の爪を装備し、身構える。 「待て、キラーパンサー。わたしの言葉が分かるか?」 突然ひとりの老人が出てきて、周囲の人間を制止した。その手には、先ほどボクが落とした剣が握られている。 「はい、分かります」 老人から敵意は感じられない。ボクは戦闘する意志がないことを示すため、鉄の爪を外して床の上に置いてみせた。 「みんな、大丈夫だ。剣を納めなさい」 「しかし、船長……」 「大丈夫、彼女は我々の知る魔物どもや魔族とは違う」 船長と呼ばれた老人は剣を丹念に調べ、何か確信を得たように微笑んだ。 「キラーパンサー、名前はあるか?」 「……ご主人さまからは、チロルと」 「ではチロル殿、一つ訪ねたい。この剣はどこで手に入れたのかな?」 ボクは船長にご主人さまが連れ去られ、パパスさまが殺されたことを説明した。 「そうか、惜しい方を亡くした。あの方も以前、この船に乗ったことがあるのだよ。 して、おぬしの探し人、パパス殿のご子息は生きているのか?」 「分かりません。でも、ボクはそれが分かるまで探し続けようと思います」 船長は剣をボクに手渡し、自警団の団長らしき人物に話しかけた。 「彼女を街の外まで送ってあげてください。大丈夫、害はありません」 そして再びボクの元へ戻ってきて、ギュッと手を握った。 「チロル殿、ワシにはこれしかできんが、主人が見つかることを祈っておりますぞ。達者でな」 「ありがとう、船長」 ボクは自警団員に囲まれながら港町を出た。 船長だけは友好的だったが、それでは納得していない様子の自警団員や船員からは、強い敵意を感じる。 もう、あそこに入ることはできないだろう。ボクは人間に見つからないよう、南の山奥の方へ足を向けた。 ボクは道すがら、小さな農村を見つけた。そこには畑がたくさんあり、多くの作物が実っていた。 「少しくらい、いいよね」 人間との生活が長いボクには、血の滴る肉よりも野菜の方が口に合う。 土が付いたものをそのまま食べる程度なら抵抗はないので、ボクは農作物にかじりついた。 「……おいしい」 「ひぃぃ、ば、化け物!」 夢中になって食べているボクの後ろから悲鳴が聞こえた。どうやら畑の持ち主らしい。 「ご、ごめんなさい!」 「し、喋った!? うわあああ」 「あ、待って……」 制止するのも聞かず、村人は逃げ去ってしまった。 ボクは仲間を引き連れて襲ってくることを警戒して、さらに山奥へと逃げるように進んだ。 だが、その選択は誤りだった。その先は切り立った山で、行き止まりになっていたのだ。 「どうしよう……」 ここから先へ進むことはできない。だが、来た道を戻ればあの港町の近くを通らなければならない。 あの周辺は武装した人間も多く、通り抜けるのは困難だ。船のときのような幸運はもう期待できない。 雨も降り始めていたので、ボクは仕方なく、近くの洞窟の中で雨宿りをすることにした。 その洞窟は適度に深く、人目を避けるには絶好の場所だった。 「ふぅ〜……」 久しぶりに、身の危険を感じずに眠ることができた。今のボクは人間から離れているほど安心できる。 気を許せる人間は、もう周囲にはいないのだから。 その後もボクは何度か港町付近まで行ってみたが、交易が盛んなのか、 キャラバンやその護衛などが街道を頻繁に行き来しており、通り抜けることはできなかった。 結局は小さな農村の畑を荒らし、洞窟に戻っては眠りにつく。そんな生活を長く続けなければならなかった。 一年ほどたったころだろうか。ボクがいつものように洞窟の奥で眠っていると、誰かの足音が聞こえてきた。 ボクは飛び起き、耳を澄ます。魔物のものではない、人間の足音だ。予期せぬ来訪者に備えるために、 ボクは鉄の爪を腕にはめ、身を低くして構える。 入ってきたのは、人間の若者だった。不思議なことに、その若者は二匹のモンスターを引き連れていた。 モンスター使い。ボクのようなモンスターの心を理解し、操る人間。しつけが行き届いているらしく、 ボクを見つけたモンスターたちは若者を守るようにボクの前に立ちはだかる。 武装した彼らは、今にもボクに斬りかかろうと隙をうかがっていた。 ――こいつら、強い! 息が詰まるほどの緊張感、張りつめた糸のような空気。 戦いは避けられない、そう思い覚悟を決めて飛びかかろうかとしたとき、不意に若者が前へ出てきた。 「ご主人、危ないよ!」 「だ、旦那!? こいつは並の魔物じゃない、下がってください!」 配下のモンスターたちの制止も聞かず、若者はボクの前に立った。そしてかがみ込み、何かをボクの前に差し出した。 ――リボン? それは何年も前に無くしたと思っていた、少女がくれた太陽のにおいがするリボンだった。 ボクは急に懐かしい気持ちになり、ふっと顔を上げると…… 「……あ、あ……」 思い出よりも勇ましく、より深い優しさをたたえた微笑み。 「……あ、あなたは」 ボクを抱きしめる腕、懐かしいにおい。記憶の中で薄らぎつつあったものが、鮮明に蘇る。 「う、う……うああああああ!」 そこにいたのは、ボクの一番大切な人。ご主人さまだった。 ◇◇◇ その日、ボクはご主人さまと語り明かした。今までの多くの出来事や、人々との出会い など、話題は尽きることがない。 だが、少し気になることがあった。昔と違い、ご主人さまがあまりボクを直視してくれないのだ。 ときどき伏し目がちにボクのことを見ては、目をそらしてしまう。 ご主人さまは初め、ボクの女の子だということにとても驚いていたのだが、それに関係があるのだろうか。 その理由を、しばらくしてボクは知ることになった。 その出来事はあまりにもボクにとっては鮮烈で、そして喜ばしいことだった。 そのせいといっては何だが、ボクはそれからのことを良く覚えていない。 荒らした農村へ謝りに行ったり、生意気だったヘンリー王子の結婚を祝ったり、幼い頃リボンをくれた少女、 ビアンカさんと再会したりしたということはおぼろげに覚えているが、それさえも霞んでしまっている。 そんなことより、ご主人さまと語りながら共に歩いたり、馬車の中で寄り添うように眠ったり、 襲い来る魔物からご主人さまを守ったりしたことの方が記憶に残っている。 なんといっても、ようやく役に立てるレベルに成長したのだ。 ボクはご主人さまのために、その腕を思う存分ふるえることに強い喜びと充実感を感じていた。 そんなボクを、ご主人さまは褒めてくれた。ただ、やっぱりいつも伏し目がちで、ボクに対する接し方もなんだかよそよそしい。それでも、移動中も戦闘中もボクのことを見ていてくれるのはうれしかった。 そうして、ボクらの冒険は進んでいった。目的だった二つめのリングを手に入れ、ボクらは船でルドマンさんの元へ向かった。 ルドマンさんの家へ二つめの指輪、水のリングを届けたご主人さまは、結婚相手を決めるために、 翌日、ルドマンさんの家を再び訪れることになったという。 そして翌朝、てっきり馬車で待っていろといわれると思っていたボクは、真剣な表情のご主人さまに呼びだされた。 「え、ボクも行くんですか?」 そのとき、何故かボクも屋敷の中へと連れて行かれた。 以前はこの街に入ることを断られたのにと不思議に思ったが、ご主人さまの言うことならと、ボクは従った。 中では三人の女性が待っていて、ルドマンさんは誰かを結婚相手として選べと言った。 ――この中の、誰かが…… 結婚、それはモンスターで言えばつがいになるということ。 ご主人さまの伴侶になれる人はなんて幸せなのだろうとボクは思った。 ご主人さまは、その瞬間をボクに見せるために呼んでくれたのだろう。 それはうれしくもあり、寂しくもあった。人生の大きな決断の時をボクに見届けさせようとしてくれるのはうれしかったが、 ご主人さまが誰かのものになってしまうという事実は、少なからずボクに寂しさを抱かせる。 「ルドマンさん」 ご主人さまはルドマンさんの前に立ち、ボクを指さして言った。 「ボクはチロルと結婚します」 「……な、何じゃと!?」 「え!?」 「うそ……」 「そんな……」 部屋の中にいる全員が驚いていた。 当然だ。ご主人さまが指名したのは候補になっていなかった、しかもモンスターであるボクだったのだから。 ご主人さまと目が合い、ボクの心臓は破裂寸前だった。今まで生きてきて、これほど心臓がドキドキしたことはない。 「えっ、ボ、ボクモンスターですよ、いいんですか?」 一番驚いているボクの手をつかみ、ご主人さまは大きくうなずいた。 「うれしいけど……ご主人さまのこと大好きだし……」 混乱しているボクを、ご主人さまはその場で抱きしめた。心臓の鼓動が伝わってくる。 ――あ、ご主人さまもドキドキしてる。 久しぶりに抱きしめられ、ボクの心は次第に暖かくなっていくのを感じた。 ボクらは長い間抱き合った。お互いの気持ちを確かめ合うように…… 周囲からは大きな反発もあったがご主人さまの意志は固く、 最終的にはルドマンさんや他の花嫁候補の女性たちも納得してくれるという形になった。 そうして、結婚式。ドレスに身を包んだボクの元へ、ご主人さまがシルクのヴェールを持ってきてかぶせてくれた。 「ご主人さま……本当にボクでよかったんですか?」 ご主人さまは答える代わりに、ボクの手を強く握った。早く教会へ行こう、と。 「わかりました。ではご主人さま、教会へ行きましょう」 そうしてボクが表へ出ると、ヘンリー王子とそのお嫁さんが駆けつけてくれた。 「やあ、久しぶりだな! 結婚式の招待状をもらってあわてて来たんだよ」 「結婚おめでとう、素敵な結婚式になるといいですね」 ボクがモンスターだというのに、二人とも祝福の言葉をかけてくれた。 あのヘンリー王子に祝福されるというのも妙な感じたが、それよりも幸福な気持ちで胸がいっぱいで、ただただ感謝した。 ボクとご主人さまは教会の中へ入り、祭壇の前まで進み出た。 「本日これより……」 胸の鼓動があまりに大きく、神父さまの言葉も耳を通らない。 「健やかなる時も、病める時も、その身を共にすると誓いますか?」 「はい」 ご主人さまの声が、ボクの頭をくらくらさせる。 「……も、誓いますか? ……チロルさん?」 「は、はい!?」 あわてふためくボクの様子を見て、周囲から微かに笑い声が聞こえたような気がした。 幸せの絶頂にいた自分が、急に恥ずかしくなる。 ――そうだ、ボクはモンスターなんだ。この結婚も、人間からみれば戯言にしかすぎないんだ。 だが、ご主人さまはボクに向かって優しく微笑んでくれた。 ――大丈夫だよ、チロル。 そう言って幼ころ、ボクを励ましてくれたのと同じように。涙が止まらなかった。 「はい、誓い、ます……ふ、ふぇ、ぇ……」 ボクはモンスターだ。本来、人間と結ばれるなど許されることではない。 なのに、ご主人さまだけは許してくれた。奇跡としか言いようがない。 「では、指輪の交換を……」 ご主人さまはボクの指に、そしてボクはご主人さまの指に、それぞれ指輪をはめた。 「二人が夫婦となることの証をお見せなさい。さあ、誓いの口づけを!」 ご主人さまはそっと、ボクに誓いの口づけをした。 ――涙でご主人さまの顔が見えない。 この後、多くの人の祝福をもらい、結婚式は終了した。その夜は遅くまで宴が続き、そして夜が明けた。 「ご主人さま、こうしてご主人さまとひとつになれるなんて、まだ夢の中にいるみたいです。 こういうとき、人間の女の人は、ふつつか者ですがよろしくお願いします、って言うんだよね。 でもボクにとってご主人さまはいつまでもご主人さまだから……ずっと一緒にいようね!」 こうしてボクらは結ばれた。 人間とモンスター、二人の未来に何が待っているのかは分からないが、きっと素敵なものだろう。 今もご主人さまが隣にいる。それだけで、ボクの生きてきた時間は無駄ではなかったと思える。 なぜなら、それこそがボクにとっての幸せだから。 旅は続く。今までと同じように、きっとこれからも。ご主人さまとボクは、同じ風に吹かれてずっと生きていくんだ。 END