動物のお医者さん 作:冬風さま 「う〜ん、どうも調子がおかしいと思ったら……どうしたことか……」 その日僕はある物を前にして腕組みをしていた。といっても僕が高校生であるからといって宿題や、 ましてや悪い模試の結果を親に見られぬようにどうやって処分しようかとか、そういう下らないことで 頭を悩ませているのではない。 僕の頭を悩ませている物、それは犬である。 目の前のゲージの中でその身を横たえて息を荒くし時折体を震わせ、 そして隅のトイレの辺りには嘔吐した跡のあるゲージの中にいる1匹のビーグル犬。 一昨年から飼い始めて今や家族の、特に僕にとっては、かけがえのない存在である、 そのエリと言う名前の犬は今朝方から急に体調を崩していた。 その日、偶然学校が休みであった僕が家にいながら、大丈夫かと時折確認していたところ、 いつの間にやらこのような事態を呈していたというわけである。 「病院に連れて行かないと……でもなぁ……」 それを見た僕の頭に真っ先に浮んだのは"病院"の二文字であった。 目の前にいるエリの姿は何とも痛々しく、そして強く心を打ち据えられるものがあった。 僕は是が非でも連れて行く覚悟であったのだが、それを実行に移すには幾つかの問題があったのである。 まずはかかり付けの動物病院が家から車で40分ほど離れた場所にあるということ。 これは以前住んでいたのがその方面であったことから来るもので、 そこの病院の院長と妙に親しくなってしまったが故にわざわざそこまで通っていると言う訳だ。 それに加えて昨日から今後2週間程度、両親は商店街のくじ引きで引き当てた、 「英仏独伊2週間西欧縦断ツアーペアご招待」の為に遥々ヨーロッパへ赴いてしまっており帰っては来ない。 車の方は、家の前まで旅行社がバスで迎えが来た為に残されているが、免許を持っていない僕が、 幾らどのようにすれば運転できるか心得ているからといって、運転する訳にはいかないので、 実質存在しないと言うことになる。 車が駄目なら自転車で行く手もあるが、車で40分かかるという距離はかなりのものである。 途中には歩道のないトンネル等色々と危険地帯が存在しているので、そのような中を、自転車の前カゴに エリを入れたゲージを載せて行くことは、あまりにも無謀としか言えない。 決して不可能ではないにしろ、僕は共に安全に往復できるという保証がない以上、 その選択肢を最初から取るつもりは微塵もなかった。 だが、そうは言えどもこのままエリを放置しておいて自然に治癒するかは分からないし、 それが原因で死んでしまっり、別の病気に感染したとなったら、あまりにも彼女自身に対して申し訳なく、 そして僕にとっては余りにも悲しい出来事となるのは目に見えている。 悩みに悩みぬいた末、僕は電話帳を手に取ると近所に動物病院がないかどうかと、 その住所を頼りに片っ端から調べ始めた。その結果、2軒の動物病院が、地図で見た限りでは 自宅から直線距離で2キロ以内に存在していることが分かった。休診日であった1軒を除いて 残ったもう1軒の、電話のつながった動物病院にすぐ予約を入れる。 ゲージに、いかにも苦しげな瞳で訴えかけてくるエリを入れて自転車に据え付けると、 一路その病院目掛けて慎重に、かつ出来るだけ早くぺダルをこぎ始めた。 予約を入れた病院に到着したのは自宅を出てから10分後のことであった。 比較的小奇麗な最近造られたばかりの感がある病院の駐車場の脇に自転車を止めると鍵をかけ、 カゴに据え付けておいたゲージを外し、それを片手に足早にその門をくぐった。 「すいません、先程予約した三原ですが……」 「あっはい、三原さんですね〜。 大丈夫ですよ、すぐに診られますので隣の診察室の中へ入ってお待ちください」 受付の若い女の人は息を荒くして焦る僕とは対照的に落ち着いていて、ノンビリとモニターの中から 僕の名前を見つけると隣の診察室へ行くように指示した。 どうやら今日は空いているらしい。すぐに診てくれることは、ありがたいことだが、 少しその態度に不満を抱きつつも軽く頭を下げて診察室の中へと入り込んだ。 僕が診察室の扉を閉めると共に入って来たのは、比較的小柄な体格をした女医さんであった。 女医さんはゲージから、弱りに弱りきって、いつも行く病院では僕らと医師を前に大立ち回りを演じさせて 仕方がないのに、今日は最早動く気力すら失せかけているエリを丁寧に取り出す。 まずは体重等を記録して診察に取りかかった。 「三原さん、エリちゃんかなり弱っていますですので入院させるべきだと思うのですが……」 「是非お願いします。入院でも手術でも何でもしてください。 とにかく元気になってくれさえすればいいのですから、よろしくお願いします」 「わかりました、じゃあそうですね、一先ず原因追求も兼ねて一晩お預かりいたしますので、 明日の午後3時に、またいらしてください。お会計はその時にお願いしますね。 ……それでは今日はもうお帰りになって結構ですよ」 「わかりました、明日の午後3時ですね。それではどうかよろしくお願い致します」 そう言って僕は診察室を後にした。受付の係ももう既に心得ているらしく、「大丈夫ですよ」とだけ 僕に向かって言ってくれたので来た時よりも少し心を軽くして帰路へと付いた。 そして翌日の午後3時、指定された時間通りに姿を現した僕に、昨日と同じ係の人は、 診察室とは別のその更に隣にある別室へと僕を案内した。 面談室のように机と椅子とだけが置かれたその部屋で腰掛けてしばらく待つと、 あの女医さんが別のドアから入室して向い側の椅子へと腰を下ろした。 そして始まるエリの病状説明。どうやらエリは風邪をこじらせたようで 肺炎を起こす寸前にまで行っていたらしい。もちろん十分に治るまでには時間こそ要するものの、 大丈夫だとの言葉に僕はほっと胸を撫で下ろして、エリに対して済まないことをしたと、 自責の念に駆られた。 そしてそのせいか僕は終わりの頃になって感謝の言葉を述べると共にこんな言葉を口にしていた。 「……エリが一刻でも早く治る為なら僕は何でもしますから、 何なりと言ってください。どうなってもいいです」 その言葉は今思うと僕の真の思いであったのだと思う。ただその時は心配のあまり胸を突いて 出てきた言葉の内の一つとしか捉えていなかった。 その言葉を聞いた女医さんは一瞬、驚いたかのような顔をしたものの、 その次の瞬間にはニヤリと極わずかに口元を歪ませたのを僕ははっきりと見た。 そしてすぐに戻した彼女はこのようなことを口にした。 「そうですか……じゃあ、1つお願いしたいことがあるのですが……よろしいですか?」 「はい、なんでしょう?」 「ちょっとこちらへ来てください……そう大それたことではありませんよ。 ただエリちゃんを早く治す為に役立つことです」 「わかりました、では」 僕と女医さんは立ち上がると先程女医さんが入ってきた扉を抜けて、 出た所にある2つの扉の内の一方の扉の中へと入っていった。 その先には鉄製の地下へと続く階段があり、2人の足音を鈍く響かせて段を降りていく。 2回踊り場を経て着いた先には再び扉があり、そこにかけられた鍵を開けると中からはなにやら、 ざわめきのような物が微かに聞こえてきた。 「一体この先には何があるのですか?」 「大丈夫です。特にそれといった物ではないですよ……さぁ着きました」 女医さんが足を止めた所は廊下の突き当たりで目の前には灰色のシャッターが下り、 それ以外には灯りがあるだけで何も無い。僕が不審に思ってキョロキョロと辺りを見回し、 丁度視線と神経を上へ集中させていたときのことだった。 不意に何かが足を叩く。それも一度ではない、二度三度と仕舞いには何か擦り、そして小さな痛みが走った。 慌ててそちらを見るとそこには自分の腰ほどの大きさの、女医さんが被るのが趣味だと言ってかぶっていた、 白い見慣れたキャップをした子供……否、鮮やかな黄色と濃いこげ茶色という虎縞の獣毛に身を包ませ、 キャップを挟む様に三角の大きな耳が飛び出して、あまつさえは尻尾を腰から垂らしている、 子供サイズの二足歩行をしている猫人間がいた。 彼女は小さな注射器を布地越しに僕の足の筋肉へと突き刺して注ぎ、 満足げに円らな明るい茶をした瞳を含めたにこやかな表情を僕に見せて片手で手を振っている。 僕は突然のことと光景に呆気に取られたまま、何かを思い、言いかけて意識を失った。 「……ご主人様……ご主人様……」 どこかで誰かがご主人様と連呼している僕の……事だろうか? あまりも続くのでそう思いつつ、僕はようやく瞳を開けた。 目の前に広がるのは蛍光灯と白い天井、どうやら横になっているらしい。 どうしてか? その理由は全く思い浮かばなかった。そして、視界の一角に移る犬の顔。 どこか見慣れた犬の……顔!? 「エリなの……か?」 そして開く一拍の間。そして次の瞬間……。 「あっご主人様、私のこと分かったのね! そうよ、エリよ! いつもありがとー。 すぐにわかってくれるなんてやっぱり私のご主人様ね! ヤッター」 「そ、そうか……それは良かった。 ところで、どうして喋ってるんだ? それに風邪の方は? 重症じゃなかったのか?」 僕は一瞬、意識が遠くなりかけたが、何とかそれを保つとそう質問をした。 何が何やらさっぱり分からなかったからだ。すると途端にエリは全てを教えてくれた。 何でもあの女医に体を改造されたらしく、気が付いたらこのように――つまりあの意識を失う瞬間に見た 猫人と同じ。ただそれがビーグルであるというだけの姿となっていたのだという。 「なるほど……で、風邪の方は?」 「あっ風邪はねーごめんなさい、仮病だったの……ごめんなさい、だってエリ寂しくて……」 「あー分かった、分かった。だから泣くな、な勘弁してくれよ……それであの女医はどこに?」 姿が違うとはいえ、人であれ獣であれ女の子を泣かすのは男の恥だと思っている僕は、 ろくに理由も聞かずに、なぜか許して話題を変えた。すると再び満面の笑みへと戻ったエリは、 何かに気が付いて別の方向へと体を向けた。 「今戻ってくると思うよ。あっ……来た来た。センセー、センセーご主人様、目を覚ましたよ!」 そう犬人と化したエリが手を振る方向には女医の姿が、 あの虎縞の猫人が、人である時と同じ様に白衣とキャップを身に付けてこちらに近付いてきていた。 「どう? 気分の方は? それと新しい体の具合はどう?」 "新しい体……? まさか……" 女医猫の気になる言葉でようやく気が付いた僕はそっとその体を、 ステンレスのベッドに腰掛けている自分の体を見て…… 「なっ何これ!? 僕が女になってる……」 「そうよ……エリちゃんのたっての希望だから許してあげて。ご主人様なんだから。ねぇエリちゃん?」 「うん、ご主人様。ごめんなさい……エリ、寂しくてお友達が欲しかったの…… それにご主人様のことが好きだったから……」 女医猫の軽快さとは別にエリは少し恥じらい加減で呟いた。 僕は渋い顔をしながらも何故か起こる気にはなれず、ブツブツと文句を口にするに止めていた。 「エリの願いなら仕方ないけどさ……かと言ってこうはないだろう……。 いつも遊んでいたじゃないか、あれでもまだ足りなかったのか?」 僕はすっかり男の象徴が消滅して、女の子になった部分を眺めた。身体はすっかり黒い獣毛で覆われて、 体型も元の高校生からは比べ物にならない小ささの、言ってしまえば少女体型になった身体の あちらこちらを触りつつ、すっかり伸びた髪の毛を弄って戸惑い気味にどこか自分を納得させようと呟いた。 「ごめんなさいご主人様……ご主人様のしてくれたことは楽しかったよ。 私も満足してたよ……。でも、ご主人様がいない時……お母さんもお父さんもいない時、 私はあの広い家の中で1人ぼっちだった……。何があっても1人だった。 どこまでも孤独で……それでお友達が欲しかったんだ……。 夜も一緒に寝てくれる友達が……欲しかっただけなの……」 延々と続くエリの告白に僕はすっかり打ちのめされた気分になった。 僕達が十分だと思っていたことがエリには不十分だった……。 その事実に僕はすっかり悲しさを覚えたのだった。 「こらこら、なに沈んでるのよお二人さん。……特にあなた、そうエリのご主人様。 あなたが沈んでどうするの! もう過ぎちゃったことを今更反省しても遅いんだし、 今から楽しませてあげなさいよ。いいわね? 聞こえていたら返事をするっ!」 「はっはい、そうですね。わかりました! エリ、これからは可能な限り寂しくさせないからな。分かってくれよ」 「ご主人様……」 エリの瞳から一筋の涙が流れた。悲しんでいるのではない。 その証拠に彼女の口元は微笑んでいる。嬉し涙……それはまさしくそのものだった。 「さぁーて、お二人さん。気も済んだでしょ? そろそろ始めませんこと?」 「始めるって一体何を? エリは知っているのか?」 「うん! 知ってるよ、ねぇセンセー」 エリの問いかけに女医猫は大きく頷いた。 「そうね、エリちゃんは知っているわね……女の子の間でしか出来ない楽しみをね。 まだ知らないご主人様に教えてあげるとしましょうね」 「はい、センセー。お願いします!」 「あのー女の子でしか出来ない楽しみとはつまり……」 何だか話が怪しげな不順な方向へなびきつつあると悟った僕は恐る恐る尋ねてみると……。 「そうよ、そのつまりだわ……。フフフ、大丈夫よ。手取り足取り、丁寧に教えてあげるわ……」 「あげますわ〜ご主人様ー」 じりじりと迫って来る二人の表情は獲物を捕らえる、まさにその時のもの。 その姿に僕は自らの敗北を確信した。 それから数日間全く想像もしなかった時間を過ごした僕は、 人の姿へ戻る術を教えられて現実へと帰還した。家に帰る僕の傍らにはもちろんすっかり元気になり、 僕に体を擦り付けてくる、いつも以上に活発なビーグル犬であるエリの姿があった。 不思議な事にあの空間は時間軸が異なるのか、 人に戻って出て来た時、数日は過ぎていた筈が、わずかに2時間しか過ぎていないと知って、 僕は新たなる衝撃を受けたものである。 今回の診察に関して女医猫はわずか5000円で済ませてくれた。 何でも、これだけ燃えあがったのは久しぶりのことで存分に満足出来たからだという。 そして、どういう訳か女医猫は、なぜか僕のこれからの当分の予定を熟知していた。 日程表を渡されて、○が付けられた日には必ずエリと共に来院するように言われた。 それを聞いていた僕は不思議と、自然に何の抵抗もなくそれに同意した。 恐らくは僕の心も以前のエリの様に寂しかったからではないだろうか。 それが満たされたことで僕の心は強く、新たに知ったその楽しみを求めるように なっていたのではないだろうか。 "次は3日後か……楽しみだなぁ" 「なぁ、お前もそうだろ? エリ」 その問いかけにエリは、強く尻尾を振り一鳴きして応じてきた。 -------------------------------------------------------------------------------- 完