海のオーブ 作:月陰さま ※ポケモンに関する話ですが、実際のポケモンの設定とは大幅に異なります。ご注意ください。 その少年の名は海野圭介(けいすけ)。中学二年生。 今年の夏は思いっきり楽しむぞーと、一人田舎の親戚の家に遊びに来た。 両親にも、もう中二だから大丈夫、と納得させて出発した初めての一人旅である。 親戚の家は海に近く、夏休みの宿題もそっちのけで、毎日のように泳ぎに行く。 外洋に面したその辺りの海岸線は、波が穏(おだ)やかで、沖には黒々とした海水が、 時を忘れさせる落ち着きをもってゆったりと広がっている。 ちょうどその家のある平野部の入り江から、岬一つ隔(へだ)てたところに小さな湾があり、 そこに彼は、人気がなく一人で海を楽しむのには恰好の浜辺を見つけた。 そこは、親戚の家のある入り江の方から岬の縁(へり)の砂地をたどって入れる所である。 その湾の山側の斜面は急で、黒松のような木々が、所々岩肌のむき出した斜面を 爬(は)うように繁(しげ)っていて、 とてもそちらからは下りて来られないだろう。 その年頃の少年にとって、そこは秘密基地にするのにもってこいで、 この上なく魅力的な、冒険心をくすぐるに十分な場所だろう。 既に海辺で数日を過ごしているだけに、彼の肌は、もうすっかり全身真っ黒に日焼けしている。 腰には、地が黒で紐が赤のサーフパンツを穿(は)いていて、程良いきつさで止めてある。 髪は茶色で、額(ひたい)が半分隠れるぐらいの長さ、少しクセがあり、ばらけてまとまりがない。 快活(かいかつ)そうな髪型である。 いま彼は素(す)潜(もぐ)りに凝(こ)っている。 海での泳ぎにもだいぶ馴れて、一昨日(おととい)から、学校のプールでも練習した潜りを試している。 海中での眺めは、水面近くを泳ぐのとは違った格別の楽しみを与えてくれる。 海面に輝く太陽は、白い光線の帯をゆらゆらとぶらさげ、 その周囲の水は空の色を映して透(す)き徹(とお)った蒼い輝きを持ち、 まるで蒼く澄(す)んだ水晶の中を泳いでいるようだ。 水中では、海底に浜辺と同じ白砂が見て取れ、真っ直ぐ前を見ると、彼方(かなた)は 蒼く翳(かす)んでいる。 この浜辺は、岩は少ないが、それでも岬の縁(へり)は 黒々としてゴツゴツした玄武岩質の岩肌が露(あら)わになっており、 その海中のやや深い所からは、白い砂の上にその同じ玄武岩質の岩がごろごろ転がり、魚が隠れていそうな 岩場になっている。彼がその辺りに差(さ)しかかると、黒い岩と岩の間の白い砂の所に キラリと蒼く光る物体が見える。 一瞬気のせいかとも思ったが、眼をこらしてみると、また光った。 そこで圭介は、底まで下りていってそれを間近に眺めてみた。 すると、それは宝石のような透(す)き徹(とお)った蒼い玉だった。 圭介はその美しさに魅(み)せられた。その玉の輝きは息づくようであり、 時に弱く時に強く煌(きら)めいているように見える。宝石の内部の蒼い光が、 揺らめき動いて活動しているかのようだった。 圭介がその蒼い玉を右手に掴(つか)んで海上に引き上げ、海面から飛び出した瞬間、 蒼い玉は、圭介の右手で太陽の光を直接受けてギラッと光った。まるで、海底から日光の降りそそぐ地上に、 いきなり連れ出されて驚いているかのようだ。 圭介は浜に上がると、ひとまず蒼い玉をわきに置いた。水中から上がったときの軽い疲労感が圭介を襲う。 しばらく圭介は沖の空と海を眺めた。空には雲一つなく、沖の黒い潮(しお)は、 相変わらずゆったりと広がり、この海は、古くからずっとこのような姿だったのではないかと思った。 長い時間がたったような気がした。 眼をわきの宝石に移す。そこには海の中で見た時ほど盛んではないが、 あの岩場の白砂を透かして煌(きら)めいていた蒼い光が、 依然して息づくように忙(せわ)しげに駆けめぐっている。 なんて不思議な宝石なんだ。海中でのあの煌(きら)めきは波うつ日光のせいじゃなかったんだ、 と圭介は思った。 圭介は、もっとよくその玉を観察しようとそちらに向き直り、 その玉を拾(ひろ)い上げて、両手で胸のあたりにささげ持ち、しげしげと興味津々に眺めた。 そのとき蒼い玉から静電気のような蒼白い光が、「バチッ」と圭介のみぞおちの辺りに走った。 指で軽く押さえられるような感じで、痛くはなかった。 すると見る見るうちに忙(せわ)しげな蒼い光は消え失せ、 蒼い玉は切れた電球のように、澄(す)んではいるが黒光りする玉へと変わっていった。 忽(たちま)ちの変化に驚きで唖(あ)然(ぜん)とした圭介だったが、同時に自分の疲労感が少し増したような気がした。 そして次に体が火照(ほて)ったようになってきて、疲労感とない交(ま)ぜになり、 逆に心なしか体が軽くなってきたように感じた。ことさら左半身の方からその感覚が強くなってゆく。 また左手の指が動かしづらくなってきた。 そこで左手に眼をやると、皮膚の色は蒼く色付き、五本の指が互(たが)いに 引っ付いて境(さかい)を無くしている。 色が変わっているのは左手ばかりでなく、腕から体の左半身の方まで、 肌の色が、瑞々(みずみず)しく艶(つや)やかな青色になっている。 まるであの玉のような。 実際に体も小さくなってきている。それは、自分のサーフパンツが緩(ゆる)んできているのでも 解(わか)る。蒼い所は体の左半身から右半身へとますます広がっている。 いま左手の指は完全に一つに融(と)けあってしまった。 さらに手の平の方向に対して平たく広がってゆく。頭も、左から頭髪の感覚が弱くなり、 額が広がって生え際(ぎわ)が後退していくのが感じられた。 目は驚きに大きく見開かれていて、左目は、その白眼が鮮やかな黄色に変わり、 茶色の黒眼は肌より深い澄(す)んだ蒼、瞳はいっそう澄(す)んで 奥深い光を沈めた蒼になってゆく。 圭介は慌(あわ)てた。しかしあまりに変化が早く、どうすることも出来ない。 頭のてっぺんにむず痒(がゆ)いような違和感を感じた。 何かが生えてくる。それは、先端にカタツムリのような、眼ではないが丸い玉状の塊が付いた触角のようであった。 そしてそれも瑞々(みずみず)しく澄(す)んだ艶(つや)やかな蒼である。 変化は左脚(あし)にも現れた。こちらも蒼く色付き、 手と同様に指が互(たが)いに引っ付き融(と)け合って境(さかい)が無くなり、 滑(なめ)らかな曲線へと変化していくのだ。 さらに脚(あし)は、体の収縮にも増して素速く縮み、体のバランスがおかしくなってきた。 さらに体の蒼い部分は左半身からどんどん広がってゆく。 ついに全身が、艶(つや)やかで瑞々(みずみず)しく澄(す)んだ蒼に覆(おお)われた。 あの日焼けした肌の活(い)き活(い)きとした人間らしい色に比べ、 この色は、まるでこの世のものならぬ、蕭(しめ)やかでしっとりとした神秘的な色だ。 胸板の上にはルビーみたいに真っ赤な宝石状のものが嵌(は)め込まれたように現れ、 澄(す)んで艶(つや)やかに煌(きら)めき、 みぞおちの辺りには黄色いゴールデンダイヤのような艶(つや)やかな斑点が現れている。 体はかなり縮んで、サーフパンツはブカブカになっていた。 腕は滑(なめ)らかで平(ひ)らたい形になって、 まるで軟体動物のヒレのようになっている。 眼は両目とも、白眼は鮮やかな黄、黒眼は肌よりも艶(つや)やかで深い蒼、 瞳(ひとみ)がよりいっそう深く澄(す)んだ蒼になっていた。 かつて眉(まゆ)のあった辺りには、鮮やかな黄色い斑点が二つ左右それぞれに出来、 目から睫(まつ)毛(げ)のように延(の)びてきた黒い筋で 繋(つな)がっている。 髪の毛は、生え際(ぎわ)がさらに後退し、八割がた抜け落ち、頭の触角は、長くやや太く、 先端の玉も大きく育っている。眉の辺りの骨の出っ張りが完全になくなって、 滑(なめ)らかな球面状になっている。鼻も顔の中に飲み込まれて、 その球面に融(と)けこんでしまった。 顔に及(およ)んでいる激しい変化の様子を確かめようと、 いままであの黒光りする玉をしっかりと掴(つか)んでいた右手を放して玉を取り落とし、 親指以外は滑(なめ)らかな曲線の中に融(と)けこんでしまった手の平を、 頬にかざして触れたその瞬間、両足とも変化が進んでかなり縮んでいたのと、 体重自体減っていた状態であの玉の重量を解放したために、圭介はバランスを崩して右に倒れてしまった。 圭介はうつぶせに倒れた。あのヒレのような平たい手で手をついたが、 体がかなり縮んでいて体重もさほど無くなっていたのだろう。衝撃は軽く、顔を前に向けたままで伏せた状態になった。 圭介は、ひやりとした後に安(あん)堵(ど)して生まれるキョトンと 気の抜けたような顔をした。 このとき体は半分ほどに縮んでいた。髪の毛は完全になくなり、 触角は、体全体のバランスを取るように身長よりも長くなり、太さはそれにふさわしい太さになり、 先端の玉もその目玉ぐらいの大きさになった。腕は完全に左右対称の平べったいヒレのようになった。 黒い玉は彼が腕を広げた間の、彼の目の前に軽く落ちた。 圭介は、このような理解不能の出来事が始まってから、 最初はどうしようという事だけは混乱という形で認識していたのだが、そのうち頭がぼんやりとしてきた。 というより、思考が軽くなっていくように感じた。 混乱の際(さい)にあるように、「どうしよう」という思いの周りを、 ぐるぐると回る様々な観念と映像とが、徐々にその密度を低くしていっているようだった。 最初は一つの観念が二つ三つ四つとステップを踏み、後戻りをして二つ目や三つ目で立ち止まり 今度はそれとはまた違うステップを踏んだり、また戻って以前のステップを再現したりもしていたのだ。 それが二つ三つで途切れ、後戻りも再現も少なくなっていくようなのだ。 それに伴(ともな)って浮かぶ映像も同じ事だ。 そして視界が澄(す)んでいくようだった。体の火照(ほて)りが いつの間にか消えている。明るい光が自分を照らし出しているようだった。 ただ覆(おお)い被(かぶ)さっているだけとなったサーフパンツの中に 縮みきった下半身を突っ込み、いままさに全てのことが終わって溜息(ためいき)をつくように圭介は叫んだ。 「マナァ!」 それは明らかにかつての彼の声とは違うものであり、なおさら人間のものとは違う鳴き声であった。 そのことに彼は違和感を感じたようである。少し訝(いぶか)しげな顔をして首をかしげ、また叫ぶ。 「マナァ!」 さらに二度三度と叫んだ。 「マナァ! マナァ! マナァ……」 そしてふと叫ぶことをやめた。深く考え事をしているようだった。柔らかそうなそのヒレのような腕で、 体に被(かぶ)さっているサーフパンツから爬(は)い出し、 起き上がって振り返り、海を見つめる。 海は、午後の傾いた日の光を受けてオレンジ色がかっていたが、 沖には相変わらず黒々とした海水を湛(たた)え、時を忘れさせるようにゆったりと広がっている。 その上の空には、雲一つなく、傾いた太陽だけが浮かんでいる。 彼は深く澄(す)んだ蒼い目に、その風景を映し込みながら、一心に沖を見つめている。 彼は急にひらめいたようにまた「マナァ!」と一声あげると、短く縮こまった脚(あし)をちまちまと動かし、 体の中ではかなり大きな比重を占める腕でバランスを取りながら、海の方へと一歩一歩歩んでゆく。 そして水際(みずぎわ)でざばりと海に飛び込むと、一気に沖を目指して泳ぎ去っていった。 彼が向かっていった沖には、いままさに赤みがかった大きな太陽が傾きかかっている。 あの黒い玉はじっと優しく彼の姿を見守っているようだった。 了